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篠田は、虚空からなにかを取り出すような仕草をして、アイリを促した。
それに従うように、アイリはバッグの中から、刃渡り二十センチほどの厚手の包丁を取り出し、テーブルに置く。
「アイリさん」
「はい?」
「しまってください」
「え、だって出せって」
「せいぜいロープか薬かと思いました。早く。お店の人に見られるでしょう。後でもらいますから」
釈然としない顔で、アイリは出刃包丁をバッグに戻した。
「アイリさん、ここで僕と約束しませんか?」
「……自殺しないってことをですか?」
「それもいいんですけど。最後は死ねば楽になれる、と思うからこそ生きられるっていう面もあると思うんですよね。だからもっと、生きるのが楽になるようなのがいいな」
「というと」
篠田は肩をすくめた。
「思いつきません。だから、いつか、僕たちだけの約束をする約束をしましょう」
「約束をする約束。……なんですか、それ」
「生きるのが楽になるよりも、楽しくなるかもしれない約束です。……ああすみません、アイリさんの牛乳、氷がすっかりとけてしまいましたね。長話しすぎました」
「いえ。実はここのアイスミルクは、氷が牛乳でできているんです。だから全然薄くなりません」
え、と篠田が目を丸くした。
「あ、驚きましたか」
「驚きました。いつかする約束のことより、氷のほうが忘れられないかもしれないほどに」
アイリが、ふふ、と息を漏らす。その眼には光が戻っていた。
「いいんですよ、忘れていたって。この先いつになっても、今日のことをふと思い出して、あの日の約束はなににしましょうって、言い続けたい」
ドアベルが鳴った。
今までの閑散振りが嘘のように立て続けに、客が、二組、三組と入ってくる。
喧騒が店の中に満ち、奥まった席で小さな声で話し続ける二人の会話は、店員にも客にも聴き取れなかった。
二人の約束のことは、ほかの誰も知らない。
終
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