血も肉も食べ方を知らない羊のように飢えている

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 篠田が、ようやくカフェオレに口をつけた。  それから、もう少し怖い話していいですか、とつぶやく。アイリが、「どうぞ」と手で示した。 「僕はたまに、人を刺してしまいたいとか、爆発物で嫌いな人間を一掃したいとか、たまに考えてしまう人間なんです」 「なんとなく分かります」 「まあ、嘘なんですが」 「意外です」 「たまにじゃなくて毎日ですから」 「意外じゃありませんでした」 「もうそうしてもいいかな、なにがどうなったっていいかな、と思うことは頻繁にあります。今のところ実行に移していないだけで。振り上げた拳が振り下ろされるとき、それを防ぐことのできる法律や良識は存在しません」 「理性が勝っているのなら、いいじゃないですか」  篠田はかぶりを振った。 「僕の理性のおかげじゃありません。あなたと昔した約束のためです」 「……あんな言葉が、こんなに長い間有効なものですか」 「あの雨の日の駅裏で、自分の折れた歯を見下ろしながら、僕は、自分の人生が幸福と不幸の帳尻が合うものではないことを確信していました」  アイリも同じ光景を思い出す。  あざだらけの顔でぼろきれのように暗がりに転がされた、見知らぬ高校生の男子。  ビルの壁と駅のフェンスに囲まれた路地の奥の空間は、すぐそばに人々の喧騒と交流があふれていることなど想像もできないほど、外界から隔絶されていた。  声をかけずにいることはできなかった。その男の子は、けたたましく鳴る電車の音を聞いて、勢い良く立ち上がると、その音のするほうへ駆け出したから。  路地の突き当りにある金網のフェンスを越えれば、すぐそこには線路がある。  待ちなさい、とアイリは叫んだ。  少年は、親に叱られた子供のようにびくりと硬直して振り向き、そこで初めて二人は目を合わせた。  ――今日はやめてください。私の寝覚めが悪いですし。私、昨日彼氏ができたばかりなんです。幸せな気持ちなんです。  その程度の言葉で、少年は、死にたいと思うのと同じくらい、生きたいということを思い出した。  ――赤の他人の私が言うのもなんですけど、自分で自分を傷つけるのは、よくないですよ。ましてや死ぬなんて。もうしないって、私と約束しませんか? 「僕は、面と向かって誰かと会話するの、ものすごく久し振りでしたから。恫喝とか脅迫とかはよくされてましたけど。親が親ですからね」  邂逅してから週に一二度会うようになった二人だったが、篠田の父親が全国を騒がせるような凶悪事件の犯人であることを、アイリが篠田から聞かされたのは出会ってから一ヶ月ほどした後だった。  清水の舞台から飛び降りるような顔で「お話したいことがあるんです」と切り出された時、アイリは愛の告白でもされるのかと思って、「彼氏いるっつってんでしょうが」と身構えたのをよく覚えている。  それからはさらに頻繁に会うようになった。  どんどん篠田との交流を充実させるアイリに、彼氏が愛想をつかして別れる羽目になったが、それでも二人の親密さは変わらなかった。  喫茶店のシェードは日に透ける素材のようで、内側から見ると、表からよりも明るく見えた。  アイリは視界の端でそれに気づき、自分たちは昼間の中を生きているなと実感する。 「私は、親の因果が子に報いるようなことは嫌いなんです。大嫌い。有名な事件だから仕方ない、っていう無責任さも嫌いです」 「そう言ってくれる人との約束だから、ずっと守ってこられたし、僕を守ってくれました」 「……確かあの日の約束は、自分を傷つけないことであって、他人を殺傷しないことではなかった気がしますが」 「アイリさんのおかげで社会性を獲得した僕にとっては、同じことです。世間一般では当たり前の常識でしょうに、あなたがいなければ、そんなことも理解できなかった」  アイリの手元で、アイスミルクの氷がとけてからんと鳴った。 「ま、私なりにお役に立てたようでなによりです」とアイリが口角を上げる。だが。 「僕は、あの約束を後悔しています」 「ええ……そんなに傷害事件を起こしたいんですか?」  半眼のアイリが、眉根を寄せた。 「違います。僕が一方的に、自分を守ると誓ったからです。あのとき、お互いに自分を傷つけるのはやめましょうと言うべきでした」
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