夏の終わり

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 ――嫌な予感は、ずっとしていた。  はじまりは三月。  新型コロナウィルスが流行した二〇二〇年、無観客で開催が決まっていた春の選抜が取りやめとなった。開会式まで十数日しか残していない直前での中止決定である。大人数で北海道から関西に向かうには早めの手配が必須だから、飛行機の手配も宿の予約もすべて終わっている時期だ。キャンセル作業その他諸々で目の回る忙しさだろうに、柏葉学園野球部監督・緑川孝明はその日の夜に電話をかけてきた。 「……そうか、柏葉の選手はみんな、落ち着いたか」 「はい。ほとんどの奴が泣いていましたし――グラウンドを殴り出した奴もいましたけど。まだお前たちの高校野球が終わったわけじゃない、夏がある。ここから夏に向けて戦うんだって言い聞かせて、どうにかこうにか吹っ切ってくれたみたいです」  帯広の隣町・幕別町にある柏葉学園高校は、北北海道で名高い野球の名門校である。昨秋の全道大会で優勝し、選抜出場が決定していた。それがまさか出発の直前で、春の甲子園そのものがなくなるとは、選手達はもちろん、監督にだって経験があるはずもない前代未聞の出来事である。自分が同じ立場であっても同じように言うしかなかったろうな……と、北潮高校野球部監督・松原保は思った。  北潮高校もまた甲子園出場全国最多を誇る南北海道の野球強豪校である。お互いに三十代と年齢が近いこともあってウマが合い、緑川とはこれまでかなり親しく付き合ってきた。昨年夏には柏葉学園と北潮高校とで十勝合同合宿を行い、彼のおすすめの源泉かけ流しモール温泉で汗を流し、地元民しか知らない安くて美味い豚丼屋で、キンキンに冷えた生ビールを酌み交わしながら野球談議に花を咲かせた。とても楽しい思い出である。――ぜひとも、今度はプライベートで行きたい。  北潮高校は全道大会の準決勝で柏葉学園に敗れたので、もともと、選抜出場の資格はなかった。悔しさがないと言えば嘘にはなるが、これまで親しく付き合ってきた青年監督が秋から春にかけてどのようなチームを作り上げ、そして甲子園の大舞台でどのような采配を振るうのか。楽しみに思う気持ちの方がはるかに大きかった。  隙間風だろうか。不意に冷たい風が吹き抜けた気がして、松原はカーテンの隙間から外を見た。既に沖縄や九州では春の大会が始まる時期だが、北海道の三月は春ではなく冬だ。さすがに道路の雪は溶けてなくなったが、道の端にはまだ雪が残っている。どうやら雪が降ってきたらしく、この季節特有の礫のように大きな雪片が、街灯に照らされながら黒い路面に次々と舞い降りていた。 「……松原さん」 「ああ。すまん。どうやらこっちは雪みたいだ。この分だと朝にはまた積もっているかもしれんなぁ」 「夏……ありますよね?」  スマホ越しに響く声が震えている。  緑川はただこの一言を告げる為だけに、わざわざ電話をかけてきたのだと悟る。間違っても選手達の――いや、誰の前であっても明かせない、心の奥底からの不安。そう、春はまだいい。本当はよくはないけれど、春ならばまだ選手達にかける言葉がある。だがもしも夏の甲子園までもが消えてしまったならば。かける言葉も慰める行動も思いつきはしない。日本中探したところで、そんな妙案を知っている監督はいないだろう。 「あるに決まってるだろう!ここは日本だぞ。すぐに治療薬やワクチンができて、こんな異常な状況がそう長く続くものか。今年の夏は甲子園で会おう。今度は俺が関西で行きつけの飯屋を案内するよ」  今でこそ名門に返り咲いた北潮高校ではあるが、松原が監督に就任した十年程前には、札幌支部予選すら勝ち上がれないほどに落ち込んでいた時期がある。どんなにきつい試合であっても、監督が試合を捨てるわけにはいかない。監督が暗い顔をすれば、確実に選手達に伝染する。高校野球の監督になって十年、コールド負け直前であってもベンチの中では沈んだ表情をしないように、演技力だけは相当磨かれたように思う。 「……そうですよね。すみません、失礼しました」 「秋の優勝校はマークがきつくなるぞ。相当研究されるしな。この分だと春の大会は中止かもしれんが……今は夏の帯広支部予選のことを考えろ。期待している」  無論、北潮高校だって確実に札幌支部予選を通過できる保障などはない。野球センス抜群の好投手ながら、時折、手痛い一発を食らう悪癖にあるエースの佐藤隆志も、昨秋の準決勝で送りバンドを三度も失敗してくれた打撃陣も、これからまだまだしごいてやらなければ。  雪だけではなく風まで出てきたらしい。電話を終えた時、風に撒かれた雪片が壁にぶつかって、ぱらぱらと散って行く音がした。北海道は全国に先駆けて新型コロナウィルスが流行し、知事が独自の緊急事態宣言を出すまでの事態となった。小中学校が休校し、不要不急の外出自粛が叫ばれ――いつになったら春がやってくるのだろうか。  雪あかりに照らされた窓ガラスに、今年の十月に四十歳になる名門野球部監督の顔が映っている。その顔が歪んでいるのが、自分でもよくわかった。
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