夏の終わり

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 夏の空に突き抜ける歓声。灼熱の太陽。金属バッドがボールを弾く音と、円山球場に木霊するブランスバンドの響き。  二〇二二年夏の南北海道大会決勝戦は、四対三、先攻の北潮高校が一点リードの状態で、陽大苫小牧高校の九回裏の攻撃を迎えていた。  純白のユニフォームを真っ黒にした選手達が、それぞれの守備位置に散って行く。グラウンドの一番高いところにあるマウンド上で、背番号一番の川島が投球練習を行っている。監督である松原は、これまで何度もそうしてきたようにベンチの最前列から、守備につく選手達を見守っていた。  昨年の夏は準決勝で優勝した日大札幌に敗れたので、勝った状態で迎える決勝戦の九回は二年前の独自大会以来のことだ。  ――俺は悔しい、俺たちはてっぺん取ったんだ。なのにどうして俺達が甲子園に行けないんだよ!  優勝しても甲子園のない大会の優勝。心から泣くことも喜ぶこともできない三年生を見て、このまま彼らの手を離してはいけないと切実に思った。高校野球の監督になって十年、選手達に対して怒って見せたことも悲しんで見せたこともあったが、人としての本音をぶつけたことはない。だけどあの時だけは本気だった。本当に本気で心の底から悔しくて――気づいた時には二十歳以上年の離れた選手達と、完全に同じレベルで泣いていた。  昨年の三年生――一昨年の二年生は、先輩達の涙を目の当たりした世代だ。当然、自分達の代でも同じことが起こるのではないかと恐れていた。だから準決勝で負けて夏が終わった後、この円山球場で悔し涙を流しながらもどこか晴れ晴れとした表情をしていた。  ――去年とは違う。今年は甲子園があった。俺らは甲子園を目指せた。感謝だ。感謝!  自身も目を真っ赤に染めながら、昨年のキャプテンが仲間にかけた言葉を松原は一生忘れないでいようと思っている。  同じ思いは今年の三年生――当時の一年生の心にもある。だがその下の一、二年生の世代となると、甲子園中止を事実として知ってはいても、実感として認識できていないらしい。  それはそれで構わない。あんなやりきれない涙を流す高校球児などもう永遠に現れなくていい。絶対に許してはならないは、あの夏に起こった出来事を、我々大人の側が忘れてしまうことだ。  ――そういえばそんなこともあったね。でもコロナだったんだから仕方ないよね。大人になれば我慢しないとならないことがたくさんあるんだから、あなた達だって我慢しないとね。  批判を恐れて安易に流されなかったか。十七、八才の少年など、綺麗な言葉でごまかせると高をくくらなかったか。本気で彼らの前で胸を張って、我々は大人であると言える振る舞いをしたのか。  あの夏をなかったことにしてはならない。――他の誰が許したって、絶対にこの俺が許すものか。  鋭い金属音が突き抜けて、球場内に歓声が鳴り響いた。二死から陽苫の六番打者の打球が綺麗に三遊間を抜けて行く。伝令役の背番号十七番を送って間を空けたものの、正直、ここまで来ると監督にできることは何もなかった。この試合で一瞬、かつてのノーコン病が顔を出しかけたエースの川島はもう完全に立ち直っている。彼に――彼らにすべてを託した今、監督は特等席に座った観客の一人にすぎない。  試合が監督の手から離れる一瞬。この快感の為に俺は高校野球の監督を続けているのだと本気で思う。  九回裏、二死一塁。  カウントツーボールワンストライクからの四球目。陽大苫小牧のバッターの打球は北海道の真夏の空に高々と打ちあがった。  センターが落下点に入って手を上げる。ライトがその背後にカバーに入り、バットを投げ捨てた打者走者が激しく首を振りながら一塁ベースに向けて疾走している。  ――大丈夫だ。伸びはない。追いつける。  そうとわかっていても、決勝戦の最後の打球はやはり緊張するものだ。しかしレギュラーセンターの長谷川は終始落ち着いていた。身を乗り出して見つめる選手と監督と観客の視線の先で、打ち上げられた打球は野球の教科書に載せたくなるようなセンターフライの軌道を描いて、待ち構える背番号八番のグラブにきっちりと落下した。  歓声と歓喜渦巻く一塁側の応援席で、突然、悲鳴を聞いた気がした。引き寄せられるように客席の方角に目をやって、松原はそこに白いポロシャツにジーンズ姿の大柄な若者が、もう一人の若者に縋って泣きじゃくっている光景を見た。  松原と目が合った瞬間、困り顔で会釈を返してきた若者は二年前の北潮のエース・佐藤隆志だ。彼はオホーツク管内の強豪大学に進学し今も野球を続けている。その逞しい肩に縋って幼子のように泣きじゃくっているのは佐藤の幼馴染の――二年前の正捕手・山本瑞樹である。打つ方はあまり期待できなかったが、キャッチング・肩・送球のコントロール、リードセンス、どこをとっても恥じることない北潮の背番号二番だった彼だけはあの年、最後まで涙を見せなかった。  高校野球の選手は毎年入れ替わる。現実問題として、卒業したすべての選手を気にし続けることはできない。だけどこれまで送り出してきた数多の球児の中で、結局、あいつだけは泣かせてやることできなかったと、苦い気持ちと共に思い出す相手だった。  ――よかった。お前、ようやく、泣くことができたんだな。 「監督!どうしたんすか!早く来てくださいよ!」  気づいた時には既にマウンド上の歓喜の輪が解けていて、選手達は校歌斉唱を終わらせていた。この後は監督・マネージャー・選手達が一列に並んで、応援席に一礼をしなければならない。二年前の記憶に気を取られて呆然と佇んでいた松原を呼んだ今年のキャプテン・三沢洋平はあの年のキャプテン・三沢浩介の弟だ。最後までレギュラーナンバーを付けられなかった兄とは異なり、背番号六番をつけてクリーンナップの三番を打っているのだが、今日の試合ではノーヒットな上にチャンスで相手にダブルプレーを献上してしまった。  忘れた頃にノーコン病が再発するエースも。普段、この上なく頼りになるのに、大切なところでやらかす悪癖のあるキャプテンも。チーム全体で見ても四点取ったとはいえ、今日の試合は残塁が多すぎた。このチームにはまだまだ鍛えなければならないところが山のようにある。  何度経験しても思う。よくぞまあ、このチームが優勝などできたものだと。それでよいのだということも知っている。何しろ彼らとの夏はまだまだ続くのだから。今日くらいは全員の労をねぎらって、甲子園という場所の怖さと面白さをとことん語ってやろう。 「監督!」 「――ああ、今行くよ!」  高校野球の監督は試合中、ベンチを出ることができない。監督がベンチを出るのは試合が終わった後のことだ。まだ今年の夏は終わらない。眩しく陽射しが照り付ける真夏のグラウンドに向け、駆け出した。
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