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「作家の妻なんてなるんじゃなかった」
文花はポツリとつぶやいた。
狭い応接室の窓からは春の暖かい日差しが降り注いでいた。テーブルの上の緑茶はすっかり冷めてしまい、文花は飲む気はしなかった。
ここは夫の取引先の一つの出版社・昼出版だった。
主に漫画で成り立っている中規模の出版社だった。
夫はデビュー当時から取引しており、ヒット作も生み出している。
作家の妻が一人でそこに乗り込むのは理由があった。
夫が担当編集者と不倫をしてしまった。
いつもの事ではある。
慣れている。
でも言うべき事は言わなければならない。
今後は担当編集者は男に限定して欲しい、不倫した編集者は移動してほしい。目の前にいる文芸局の編集長・紅尾豊は一応話は聞いてくれた。
紅尾は夫のデビュー当時からの長い付き合いの編集者で、夫の女癖の酷さは承知していた。むしろ野放しにしていた。その方が良い小説が書けるからだ。
実際夫が不倫に没頭していた時に書いた小説はヒットし、純愛物語として映画化やドラマ化もされ若い女性に人気だった。実際の作者はドロドロのゲスい不倫を繰り返しているのになんという皮肉だろう。
「でもね、奥さん。言いたくないけれども、芸の肥やしって事で…」
「許せって言うんですか?許すことならずっとしていましよ。ただ…」
文花の声がつまり、目に涙が溜まる。
三十代半ばだが、痩せていて肌も綺麗なので実際年齢よりも若く見えた。涙を堪えている姿は、か弱い小動物をいじめているようにも思い紅尾は居心地が悪い。実際この女の中身はかなり神経が太く滅多な事では動じないのだが。
若い頃より少し後退したおでこの汗を拭く。この妻の夫・田辺哀夜からは妻からの要望は一切聞くなと釘を刺されていた。紅尾にとっては板挟みの話である。
「そうですねぇ…。まあ、担当編集者を男と言うのは…」
「あの今の担当編集者はもちろん変えてくれるんですよね?移動になるんですよね?さすがに不倫がバレたんですから。普通の会社だったらそうでしょ?」
「そうですねぇ……」
紅尾の言葉には曖昧で文花に心に不信感が募る。
大方、夫が何か釘を刺しているにだろう。
夫の考えは手にとるようにわかる。証拠はない。単なるカンである。女のカンはよく当たるものだ。夫の表情や声色だけでも、彼が考えていることがだいたい見当がつく。
「まあ、わかりました。検討はしておきます…」
「お願いしますよ。私もう本当の苦しんです」
文花は咳き込み、鼻を啜った。
「お察します…」
「奥さんは何か趣味でもないんですか?」
「趣味?突然何です?ないわよ」
ハンドバッグからハンカチを取り出し、頬の涙を拭った。
文花はすっかりと冷めていた緑茶で喉を潤す。予想した通り緑茶は美味しくはなかった。泥水でも飲んでる気分だ。
「いえ、趣味でも有れば奥さんも気が晴れるんじゃないかと思ったんですけど」
「ないわ。何をしたって気が晴れるわけないじゃない」
弱そうに見えながら、ハッキリと口にする文花が少し怖いと紅尾は思った。
泣いているくせに背筋はスッと真っ直ぐでやけに堂々としている。体の中に鉄でも入っていそうだと紅尾は思った。見た目や雰囲気に対して中身は肝が座っているというか、図太そうというか。
「とにかくわかりました…。検討します」
「お願いしますよ…。あ、そろそろ帰らないと」
ここで話し合いは終わった。これで文花井
から解放される。
正直紅尾はホッとした。
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