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ちょうど昼休憩前だったが、紅尾と常盤はそのまま昼出版の一階にロビーに座り缶コーヒーを開けた。
「なんですか。あの田辺先生の奥さん」
作家の妻が何の用事があるのか気になった。
涙を浮かべていた。紅尾は厳しいところもあるが、理不尽なことや八つ当たりをする性格ではないし、女性を泣かせるような人物にも見えない。どちらと言えば、奥さんの尻の敷かれている事をよく愚痴っていた。
まあ、常盤は、漫画編集部から文芸局に移動して来たばかりなので、本当の性格はまだよく知らないが。
「田辺先生は女癖悪いんだよ…。担当編集者と不倫しちゃってね。聞いてないか?」
常盤は首を振る。
確かにそんな噂を聞いたような気がするが、噂は噂だ。証拠もない噂を信じる気がしれない。
常盤はそういう男だった。良くも悪くも目に見えるものしか信じない。朝のニュースで流れる占いなども不愉快で仕方がない。科学的でもない事も苦手だったし、証拠もない噂も何が楽しいのかわからなかった。
「有名だよ。それに昔さー、人気作家のゲス不倫って週刊紙に載ったの覚えてないか?」
「あー、そういえば!」
思い出した。
ワイドショーでも騒がれて、ネットでは炎上していた。作家の妻A子さんも写真が載って叩かれていたのを思い出す。そう言ったスキャンダルに興味がない常盤ですら耳に入ってくるぐらい騒がれていた。
確かA子さんが週刊紙にリークしたという噂だったが、実際のA子さんを見てみると大人しそうな地味な女性で、そんな事をするようには見えなかった。むしろ弱々しい雰囲気だった。儚げな感じでもある。
「あのスキャンダルはすごかったわな。うちの本も増刷かかってすごく売れたんだわ」
「そうなんですか?」
紅尾は缶コーヒーを飲み干す。
「結局、田辺先生は実力あるからな。そんなスキャンダルになったって関係ないんだよ。むしろ売名できてラッキーって本人言ってたぐらいだ」
「ひどいなぁ」
「いいんじゃない。売れればさ…。そうだ、お前田辺先生の担当やってくれない?」
「ええ?」
聞くと田辺の新しい担当編集者が決まらず困っているらしい。
田辺は女じゃないと嫌だとごねているそうだが、妻は担当は男にしろと直談判。紅尾は田辺の希望を優先して女の編集者をあてがっているが、そのたびに速攻で妻から泣いてクレームが来て、困っているという。板挟みである。
「もう疲れたよ、あの奥さん。超しつこい。先生には俺がなんとか言っておくっていうか、お前が担当になりたいと熱望したと言うか」
「俺のせいっすか? 嫌ですよ。女の編集者他にも…」
頭の中女の編集者の顔を思い出したが、揃いも揃って産休に入っていた事を思い出した。常盤は今後のことを想像して胃が痛くなるような思いがした。
「うん、それがいい。お前が全部飲め」
珍しく紅尾は理不尽な事をごり押しして来た。
「俺、田辺さんの奥さんやっぱり苦手…。何考えてるかわからない超クレーマーだし。メンヘラ地雷女だよな、あれ。関わりたくないわ。俺だったらああいう女絶対妻にしたくないね」
紅尾は深くため息をついた。
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