メンヘラ地雷女編

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「男の編集者になって嬉しいわぁ。本当に嬉しい。すごくすごく安心しました」  我ながら自分の声は弾んでいる。  文花は自宅の二階にある書斎を掃除中、電話がかかって来た。昼出版の編集者からだった。  昼出版の文芸局局の紅尾に直談判してから数日後の事だった。  新しい担当編集者は常盤純と名乗り、わざわざ連絡もくれた。  あの時エレベーターの中であった小太りの社員だと思い出す。  これで何か間違いが起こる可能性は低いだろう。  夫は手当たり次第で性別が女なら誰でも良いぐらい軽薄な女好きだが、仕事関係者と不倫関係になる可能性は低くなった。妙な事が起きる芽をとりあえず潰せた。 「そうなんですか。宜しくお願いします…」  文花の浮かれた声と違って常盤の声は沈んでいた。  まず担当になった事を田辺に伝えると、初っ端から機嫌を悪くされた。  女じゃないのか、妻に何か吹き込まれたのかと凄まれ、不倫出来ないうちは良い作品は書けないかもしれないと編集者にとっては恐ろしい事も宣言された。  結婚相談所をテーマにして取材すれば女性に会えるのではないかと提案して、なんとか自分が担当である事を納得してもらえた。  田辺は女と会えると聞いて早速結婚相談所の取材を始め、企画書やプロットまで何本も提出してもらい、かえって良かったのかもそれないが。  問題はその妻・文花である。  同僚達にも色々と文花の話を聞いたが、どれも良い評判は聞かなかった。田辺は不倫の常習犯で、担当編集者や取材先の相手とよくそう言った関係になっていたらしい。その度、文花は出版社に抗議をしに来て、時には作品を書くのをやめさせるように言う事もあったという。  出版社としては妻の方が迷惑な存在だった。むしろ田辺は不倫している時の方が良い本を書き、ヒットを出した。同僚達は文花のことは、「地雷女」「メンヘラ女」「敵にしたら怖い」と評した。  今後もし田辺が不倫したとしたら、常盤のせいだと泣いて責められるだろうと怖い事も言われた。  こんな評判を聞いて気分は明るくはなれない。胃が痛い。  田辺の担当だと聞いて同僚達は全員同情的だった。そういえばベテランのベストセラー作家の割には、担当編集者が若手ばかりなのも今から考えると納得する。あの奥さんの扱いが面倒だから、立場の低い若い社員に回ってきたというわけか。  常盤は電話越しとはいえ、なるべく文花の機嫌を損なわないようのに気を使いながら話した。 「ところで、夫の次の小説はどんなテーマなの?」 「婚活がテーマです。三十代女性の婚活と恋愛をテーマにしたリアルな恋愛小説を…」  話しながらこれを言ったら良いのかどうか迷った。  取材先で女性と出会うのでは無いかと勘繰られたらどうしようとヒヤリとした。何も悪い事はしていないのに、何かバレたらどうしようと常盤は居心地が悪くなる。 「そうなの。楽しみだわぁ〜。私、主人の人格は最低だと思うけど、書くものはすごいと思うのよね…。まあ、本心では恋愛小説なんてやめて欲しいんですけどね」  思ってもみない反応だった。 「そうなの。宜しくお願いしますね。どうか、夫の良きサポートをしてください」  とても健気な事も言われてしまった。  同僚達の言う花への悪評は、単なる噂なのか? ただ自分の印象では、そこまで酷い女には見えなかった。実際会った事は一回だけで、文花についてどうこう言う権利など無いのに等しいが。 「あと、でも、主人が不倫しない様にしてね?お願いよ…。今度もし不倫なんて始めたら許さないんだから」  文花の声はひどく寂しげだった。
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