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幸せな結婚編
その日、文花は朝早く起きて再びクッキーを作っていた。
いつもと違い生地に紅茶や抹茶を混ぜてアレンジする。ネットで注文したフラミンゴやペンギンの型も使い、いつもと違うように作った。出来上がるとキッチンにバターの香りや紅茶の香りが広がるが、夫は匂いにつられて離れからやってはこなかった。
夫についてはずっと無視していた。顔も合わせていない。
ただ常盤から連絡がきて、短編を何本か仕上げてる事を報告された。妻が若い男と不倫したり、独身の女教師が生徒に手を出したり、未亡人が若い男と駆け落ちそたりする背徳的な話が多いという。
企画が通った「愛人探偵」は殺人事件が起きるまで書き上げたそうだが、それ以降手が止まっていると言う事だった。結婚相談所を舞台にしたラブストーリーはほぼ仕上がり、夏頃に出版されるという。
今回の週刊誌に記事が載った事により、やっぱり少しばかり既刊本の売り上げが伸びているという。文花はそれを聞いてげんなりとした。人々のゲスさに。
そんな事を考えながら、熱が冷めたクッキーをラッピングする。
これは秋子にあげるものだ。
今日、秋子の家に集まる事になった。華は急な仕事が入ったので、十羽と三人で。
秋子のメールを送ると、また会える事を喜んでいた。最近また体調が悪くなり、食事もあまりとっていないという。クッキーは食事にはならないが、少しでも心が和めば良いと願いながら型抜きクッキーをラッピングしていった。
それが終わると書斎に直行し、花言葉の本を本棚から引き抜いた。夫の仕事用の資料で、国語辞典はもちろん、花や色の図鑑なども本棚の並んでいる。もっとも夫は最近これらの本は資料としてあまり使ってなく、埃臭さが文花の鼻をくすぐった。
「クローバーの花言葉は…」
目当てのページを捲ると、思った通りの結果が書いてあった。文花のとある確信はますます強まった。
危険かもしれない。でもこのままだと秋子にまで危害が加わる可能性がある。とにかく今日は秋子の家に行かなければならない。
花の図鑑を閉じて本棚にしまうと、書斎の机の引き出しから、地図、防犯ブザー、デジカメ、催涙スプレー、メモ帳、眼鏡を取り出してカバンに入れた。これは愛人を尾行するときに使っているものだ。出番はないかもしれないが、一応カバンに入れておく。
愛人の中にはたちの悪いものも多いので、身を守る為の防犯ブザーや催涙スプレーを持っていると安心した。もっとも今まで出番はなかったが。
その後文花井は身支度を整え、秋子にあげる為のクッキーをカバンに入れているとき、夫が離れからやってきた。
「文花ちゃん、あのさ」
「不倫なんてしませんよ」
「すごい、なんで俺の言いたいことわかったの?」
夫は寝ていないのか目の下が黒くなっていた。髪はボサボサで、体重も少し減ったようだった。健康的とは言えず、少し同情心も芽生えたが、数々の裏切りが頭をよぎり、そんな気持ちもすぐに萎んだ。
「クッキー焼いたの? 食べたいな〜」
「ごめん、人にあげるから端が焦げた失敗作しかないのよ」
「人にあげるって誰? 文花ちゃんみたいな粘着質で性格悪い女に友達いたっけ?」
「前にオフ会行った時の…」
夫の口の悪さについ本当の事を言いそうになったが堪えた。ミイに傷つけられた被害者の一人に会いに行くとは言えない。しかもミイの事件を調べる為だとは絶対に言えない。
「オフ会? そういえばちょっと前、友達とカフェに行ったとか言ってたのな?」
今日の夫は妙に鋭かった。
「ねえ、文花ちゃん、今日どこ行くのさ?」
しかもしつこい。
夫が文花にしつこさを見せるのは珍しい事だった。小説のたった一行書くために十冊以上しつこく資料を読んで書く事もあるので、仕事に関してはしつこいのだけど。
「今まであんなに不倫してきた貴方が妻の言動についてあれこれ言う権利はあるかしら?」
ついつい正論を言ってしまった。
夫は一瞬怯み、そして何故か悲しそうな表情を浮かべた。
「じゃあ、出かけてきますから。ご飯はレトルトでもファストフードでも適当にやってください」
文花は上着を着てカバンを掴み、玄関に向かった。
「ちょっと、文花ちゃん」
夫が何か言いかけたようだったが、無視した。
外に出ると空が厚ぼったく、天気は良くはなかった。天気予報では雨が降るとは言っていなかったが、一応カバンに折り畳み傘も入れて置いた。
相変わらず近所の白い目を背中に感じながら駅に向い、電車を乗り継ぎ秋子の家に向かった。
チャイムを鳴らすと、玄関が開いた。
「こんにちは。文花さん、待ってたんだよ」
そこには秋子ではなく十羽が立っていたが、文花は特に驚かなかった。
「ええ、犯人さん?」
十羽はパーマのかかった前髪を軽くかきあげ、口の端をあげて笑った。
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