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十羽に促され、秋子の家に上がった。
文花は冷静を装っていたが、手のひらは汗ばんでいた。
「あ、秋子さん!」
声が震えた。
通された客間で秋子が床に倒れていた。文花は秋子の側に座り、体を揺すってみたが起きない。ただ手を触ると脈があり命には問題ないようだった。
「あなた、何をしたの?」十羽を睨みつける。
「俺は秋子さんは殺さないよ」
十羽は再びのノヤニヤしながら、文花達を見下ろしていた。
「ちょっと眠って貰っただけだよ。気絶しているだけだ」
「どう言うこと? あなた、秋子さんの事好きじゃないの?」
「はは、そうだよ。だから彼女に喜んで貰いたくて、ミイを殺した」
予想していた通りだった。
特に驚かない。
文花は犯人はきっと歪んだ正義感を持つ人間だと予想していたし、十羽の行動は怪しかった。
「なのに、秋子さん、全然喜んでくれないんだよ。それどころか自首してって言ってくる。どうしてだよ。俺が秋子さんを愛してるのに」
十羽の声は悲痛に満ちていた。
文花もこんな気持ちになるのは心当たりはある。相手にいくら尽くしても通じない悲しさと虚しさ。
だからといって十羽に同情はできない。所詮、人の気持ちはコントロールできない。いくら与えたとしても返ってくるものなど無いに等しい。それどころか、恩は仇で返される。文花は夫との生活でその事を嫌というほど実感していたし、犯罪に手を出した十羽にはやっぱり同情はできない。
「何故? どうして俺だってわかった?」
「うちの近所のあのカフェ、土地勘ないのによく行けたなって不思議だったの。前に来たことあるわね?ミイを殺した時と私の尾行」
誰かに尾行されていた事は感じていた。自分が愛人の尾行をしていたせいもあるし、記者に追われた経験もあるので、背後の気配や靴音には敏感だった。十羽らしき人物を見たという近所の人間の高里の証言もある。あのカフェの帰り、十羽が近所にうろついている事を確信した。
「あんたは秋子さんを傷つけそうな奴だったからな、尾行してたんだよ」
「私が秋子さんを?」
十羽はゆっくりとしゃがんでいる文花に近づく。
「過去のこと根掘り葉掘り聞きやがって」
穏やかで優しそうな十羽の姿はもうどこにもなかった。
文花は倒れている秋子を庇うように姿勢を変えた。
「いけない? 夫の愛人が極悪だったんですよ。調べておいた方がいいかなって思っただけ」
「極悪かぁ。それは同意する。しかし、あんた犯罪者と会ってるんだぞ。もう少し狼狽えたらどうだ」
「お生憎様。私、夫の不倫以外では動揺しません」
半分は本当で半分は嘘だった。実際今は冷静を装っているだけで、手のひらは汗ばんでいるし生命の危機も感じている。しかし頭の中はさっきからずっと冷静だった。こんな状況でも夫に不倫されるよりはマシだという思考で頭がいっぱいだった。
それに恋を拗らせて殺人を犯す十羽など、まだまだ子供のようにしか見えなかった。本当にうまくいかない人間関係などこの男は経験した事が無いだろう。そう思うと頭の中はスッと覚めていき冷静だった。
「秋子さんの旦那さんに嫌がらせしてたわね?」
「そうだよ。あいつのせいで秋子さんはは幸せになれないんだから、当然だろ」
吐き捨てるように十羽が言う。
秋子の旦那からはメールをもらった。
最近家に悪戯電話がかかってきて、脅迫状じみた手紙も送られてきたという。子供も知らないお兄ちゃんから三葉のクローバーを貰ったらしい。前髪にパーマをかけた若い男から。一般的にイメージのよい植物だが、その花言葉は「復讐」。完全な嫌がらせ行為だ。意味を知っていると怖い。以前夫が自分の小説でクローバーの花言葉をネタに書いていたのでピンときた。
「ミイと同じような嫌がらせして恥ずかしくないの?」
「あいつとは違う。俺は不倫なんてしてないよ?」
十羽は全く悪びれない。まるで自分の正義が一番正しいと信じ込んでいるようだ。
「そうね。不倫は良く無いわね」
「だろう。だからミイは死んで当然なんだよ。少しは許してやろうとは思ったさ。でもあの女、俺のことを仕事をできないブサイク男って言いやがった!だから花瓶で殴ってやったよ!」
十羽は一人激昂しながら、自分の言葉に酔っていた。カバンに手を突っ込み、目当てのものを探す。
「うぅ、いたぁ」
秋子の声がした。意識が戻ったようだった。
「秋子さん!」
「うう」
秋子は声にならない声を上げながら身体をゆっくりと起こした。
「十羽くん、自首しよ。一緒に謝ろう」
十羽は顔を歪めた。秋子の声があまりにも優しかったから。文花が秋子の側によりそい、彼女の潤んだ目を見つめた。
「いやだ。全部秋子さんのためにやったんだから」
「そう、ありがとう」
その声はとても冷ややかだった。
「でも、私、別に不幸じゃないわよ。最近、また料理も掃除も少しずつできるようになってきたのよ。家にお客さんが来ると変わるものね」
秋子は文花を横目で見て微笑んだ。
「クッキー自分で作ってみたいな、文花さん、教えてくれる?」
「ええ、いいわ!今日も抹茶と紅茶のクッキー持って来たのよ」
文花はクッキーを探すふりをしながらカバンの中の催涙スプレーを掴んだ。
「夫と息子に食べて欲しいな、クッキー。私、別に旦那の事恨んだりしてないよ。もちろんミイさんの事も。とっても幸せよ」
とても悲しそうな表情で秋子が呟くと、十羽は力なく腕を下げた。
そこへ文花は催涙スプレーを十羽に向かって吹きかけた。
同時に防犯ブザーの紐も思いっきり引き抜いた。けたたましい音が鳴り響く。文花は大声を振り絞って叫んだ。
「あなた! 尾行してきたんでしょ!それに刑事さんも!出てきなさい!」
スプレーに塗れた犯人がうめき声を上げながら、倒れた。
そこへ夫と藍沢がドタドタと押し寄せてくる。
「文花ちゃん!」
「警察だ!」
夫は倒れている十羽を数発殴り、藍沢は十羽を捕まえた。といっても十羽は息も絶え絶え、ろくに動けなかったが。
「なにこれ、どう言う事」
秋子は口をポカンと開けて成り行きを見守るしかなかった。
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