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菜摘が帰ってしまうと、夫が離れからやってきた。
「姉さんなんだって?」
「なんでもないよ。あなたの事が心配なだけよ」
夫はしばらくろくに寝ていないのか、髪はボサボサで目の下にクマができていた。
今のところ夫は不倫をしていない。だからといって小説が書けないという事は無いらしい。
事件に巻き込まれた結果、夫は犯罪や殺人に興味を持ち、ミステリー作家に転身したいと言った。
といっても今のところミステリーの企画が通ったものは文花をモデルにした「愛人探偵」だけだが、あの後一週間で続きを書き上げてしまった。
文花が愛人を調べるために使った愛人ノートや愛人の画像、SNSの記録データなどは全て、夫の仕事場である離れにうつされた。他にも犯罪心理や毒物などの資料も買い漁り、探偵である向井や警察の藍沢に取材をアポ無しでしつこく申し込み、文花のところにもクレームが来るほどだった。
「ねえ、文花ちゃん、探偵になってくれないかな」
それでもネタに尽きると文花にそういうのだった。しかし滅多に事件など起こらないし、文花にその意思はない。
ただ、夫が作風を転換してくれたおかげで、文花の心には久々に穏やかさが戻った。夫に無視することもないし、愛人について調べる事はない。相変わらずヘルシーな料理を作り、不味いと少し夫を困らるだけだった。
今のところ愛人探偵しかミステリーは書き上げていないが、編集者の紅緒と常盤からの評判は良い。文花も初稿を読んだが、今回のミイの事件をモデルにしつつもエンタメに成立していた。
ただ、探偵役のキャラクターは粘着質のメンヘラ女で好き嫌いは分かれるかもしれない。これは文花がモデルだから仕方はない。紅緒は一般ウケする心優しい探偵に変えるようアドバイスしたそうだが、意外にも常盤が反対して今のようになった。それもデフォルメされて漫画ティストのキャラクターになっていいる。一周回ってシュールな笑いを誘うようなキャラクターだ。
「いやよ、探偵なんて」
「向井さんとこでバイトしたらどうだ、文花ちゃん暇じゃん」
夫の指摘は事実だった。実際、夫の愛人調査がなくなるとやる事といえば家事と秋子の家で行われる料理教室の準備や勉強と言ったものぐらいだった。
向井の事務所も女性事務員が家庭の事情で退職してしまい、文花に手伝って欲しいと言われていた。探偵としてではなく、雑用係としてだが。
「そうは言っても文花ちゃん、探偵向いてるんじゃない?あの愛人ノートは本当にドン引きした。うん、本当に。まさかあそこまで調べてるなんてさ」
夫はわざとらしく身震いをした。
しみじみと愛人ノートに引いた事を語られ、さすがに文花もばつが悪くなった。
「これじゃ、もう浮気なんてできないかも?」
「なんでそこで疑問系なの?」
「まあ、良いや。僕は文花ちゃんの粘着質な所も好きさ。愛してるよ」
冗談めかして言われた。
昔だったら、その言葉は嘘だと切り捨てていただろう。しかし実際本当に夫は浮気をしていない。離れに閉じこもって小説を書く事だけに集中している。信じても良いかもしれない。そう思えるほど、今の文花の心は穏やかだった。
「そうねぇ、私も愛してるわぁ。クッキーでも食べる?今日はほうじ茶味にチャレンジして見たのよ」
文花は今朝焼いたクッキーをキッチンに取りに行った。
夫は文花の背中に声をかける。
「だから、文花ちゃんも浮気しないで」
「しませんよ!」
文花はため息をついた。
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