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カフェから自宅に帰るとリビングのソファに夫がぐったりと寝ていた。しかもそばに常盤がいた。
聞けば執筆に集中しすぎて体調悪化し、常盤を呼び出したと言う。
ソファの前にあるテーブルには、常盤が買ってきたと思われるお粥や果物のゼリーやスポーツ飲料水が置いてあった。
「先生、企画通ってないのに愛人探偵の続編書き上げちゃったみたいなんです」
常盤は困ったように文花に報告した。
よっぽどその話が気に入り体調を悪くするほど執筆してたと言う事か。珍しい事だ。まあ、ラブスストーリーを描く為に不倫されるよりよっぽど良いが。
「うるさいなぁ。でも、本当に良い出来なんだよ。読んでくれよ」
うめくように夫が言う。
常盤がため息をつきながらも、夫のわがままを上手く聞き流していた。夫の扱いが上手いようだった。それに関してはちょっと嫉妬そてしまう。
文花はとりあえずキッチンに行きお茶を入れにキッチンに向かった。
ヤカンに火をつけたところ、常盤もキッチンにやってきた。常盤は何故か機嫌が良さそうでニコニコとしていた。
「よかったですねぇ、奥さん」
「何が?」
文花が首を傾げた。
「事件も解決できて。先生もミステリ作家に転向できて」
「そうね。不倫する可能性はだいぶ減ったわね」
ただ問題は夫のミステリが世間に受け入れてくれるかどうかだ。夫はラブシーンや恋愛感情の描写の丁寧さに特徴がある作家だ。
ミステリではそこは生かされていない。だからといってミステリ要素も他の作家に比べて正直拙い。探偵役の奇抜なキャラクターに依存している話だった。編集部で評価されても世間で評価されるかは、文花にはわからなかった。文芸誌やネット書店のレビュー欄で酷評されているのも想像できてしまう。
「ただ、新作売れるかしらね」
ヤカンのお湯が沸き始め音を鳴らし始めた。
「はは、大丈夫ですよ」
常盤は何故か楽観視している。
「誰かを傷つけて成立してる傑作より、誰も傷つけない駄作の方がいいかもしれません」
「そうかしら。編集者にあるまじき発言ね。って駄作ってそれで良いの?」
「はは。だから、もう編集者変えてくれ〜とか泣いて抗議に来ないでくださいね」
「わかってるわ」
「ぶっちゃけうちの会社の文花さんの評判が最悪ですよ」
事件を解決した今でも昼出版内部では、文花が犯人という説が未だにあるらしい。それぐらい昼出版で文花の評判は最悪だったのだ。
そうこうしているうちに湯が沸き、お茶をカップに注いだ。
せっかくお茶を淹れたが、常盤は時計を見て急ぎの用事があると帰ってしまった。
皿に焼いたクッキーを盛り付け、夫の元へ持っていく。
夫は具合は悪そうだったが、満足気に目を閉じていた。
「あなた、私、幸せよ」
夫の耳には届かない小さな声で囁く。ようやく何も起こらない日常が、文花の元に戻ってきた。
ちなみにその後出版された田辺哀夜の結婚相談所を舞台にした恋愛小説は話題大性も十分でヒット作になったが、その次に出版されたミステリは賛否両論を巻き起こしていた。売り上げもさほど振るわなかったが、それはまた別の話。
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