番外編短編・向井探偵の正義

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番外編短編・向井探偵の正義

 文花が初めて向井探偵事務所にやってきた日は雨だった。  強い雨音がうるさいと思っていた午後、思い詰めた表情の女がやってきた。  歳は三十代ぐらいか。  控えめで地味な雰囲気の女だったが、スッと背筋を伸ばして視線も妙に勇ましい。  向井はこの女はなかなか強かそうだと思った。探偵に相談する内容は想像がつく。浮気調査だろう。  この女の堂々として凛とした雰囲気は「本妻」だ。  妻の立場である女がどことなく堂々としていると向井は思っていた。  一方「愛人」は妻に比べて、容姿や雰囲気がどことなくだらしがない。きちんとメイクをして服を着ていても、目線や視線が緩い雰囲気なのだ。きっと影でやましい事をそうしていると、ちょとした態度に滲み出てしまうのだろう。  長年、浮気調査をしてきてそんな実感を持っていた。  とにかく応接室で向き合って話を聞く事にした。  女の名前は川瀬文花と言った。 「夫が浮気しているんです」  相談内容は予想通りだった。悪いと思いつつ夫の手帳や携帯を調べて数人愛人がいる事を突き止めたのだという。 しかし驚いた事に女の名前を全員調べ上げていた。女のSNSを調べ上げ、ノートに夫と逢瀬を重ねた日付も特定している。  執着心を感じた。  大人しそうな女の中には、執着とも言える強い意思があり、面白いとすら思った。 「で、浮気の決定的な証拠が欲しいんです。写真が」  文花は膝の上でぎゅっとハンカチを握りしめていた。泣いているわけじゃない。おそらく精神安定のためだろう。声が震えて思い詰めている。 「うん、わかった。依頼料は1000万で承るよ」  ちょっとからかって見たり、意地悪してやりたい気持ちだった。 「そんな無理です。私達夫婦は大金が使えないタチなんです」  文花はそれぐらいに貯金はあるというが、不安定な仕事についている夫はとことんケチなのだという。  文花の口から聞く夫のケチで臆病者のエピソードは思わず吹き出してしまいそうで奥歯を噛む。臆病者なのに不倫をしているという矛盾もおかしく、笑いたくなったが一応客の前で爆笑するわけにも行かない。  文花は心底困った顔をしている。  黙りこくり、外の雨音が余計にうるさく感じた。 「ここまで自分で調べたんなら、自分で調べたらどうだ?」 「自分で?」 「そう。ぶっちゃけドン引きだよ。ここまでノートにびっちり愛人の事書いてるなんて。でもそれだけの執着心があれば自分で調べても良いんじゃない?」  文花は再び考え込み黙った。  背筋はピンとしていて、あらゆる意味で強そうな女だった。臆病者な夫と強い妻。なかなか良い組み合わせかと思ったが、こんな事も口にし出せない。 「だったら怪しまれない尾行の方法とか教えてくれません?」  それは企業秘密で正直なところ教えたくなかったが、この女にはちょっと教えてみたくなった。  心の内では、少しワクワクもした。  妻自身の手で夫の弱みの決定的な証拠を手に入れるとは。  探偵がそんな事を唆すのは、商売を考えると良いことでは無いかもしれないが、この女には自分の手でそれができるかもしれないと思ったのだ。 「わかったよ。教えるから、たまにその結果を俺にも報告してくれない?」 「何故?」 「師匠が弟子のやってる事気にならないわけないだろ。ああ、お金はいいよ。報酬はその結果を見せる事だけ」 「本当ですか?」  文花はこの時初めて笑顔を見せた。
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