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夫はしばらく取材と言って家に帰ってこなかった。複数の出版社と取引している夫は多忙だった。
文花は自宅のリビングや客間を掃除しながら考える。
おそらく取材である事は本当だろう。
ただ自分のカンは、何か警告を鳴らしていた。
文花のカンはよく当たる。特に夫に関する事は。
夫の表情やちょっとした仕草がこの頃どうもおかしい雰囲気がある。証拠はないが、やましい事をしていると思った。
女と遊んでいる可能性もある。遊びや肉体関係だけの不倫は、もうとっくに諦めていた。その事はもう追求しない。知らぬが仏だ。
ただ、お互い本気になっている不倫が危険だ。
数年前、夫は元モデルの女と不倫した。その女は特にタチが悪く不倫の事を週刊誌に漏らし、スキャンダルとなった。ゲスいメールの内容なども週刊誌に晒され、文花もネットで叩かれた。憔悴しきった姿を写真にとられ週刊誌に載った。
妻A子さんとして、目隠しはされていたが、全身の写真が写り、化粧もせず冴えない格好をしているから不倫されるのだと心ない言葉をネットや現実世界でも浴びせられた。毎日悪戯電話がかかり、記者が自宅の周辺に張り付いていた。
実際に自分の身の危機が迫り、半年以上抑うつ状対になったほどだった。
これで夫も不倫をやめるだろうと思ったが、逆に名が知れ渡り夫の本に増刷がかり売れに売れ、実写化も決まり、コミック化も決まった。そこで知り合った漫画家のアシスタントとまた不倫をはじめた。
踏んだり蹴ったりだった。自分でもよく生きてこれたと思う。
その時を境に、夫のスマホや机の中を躊躇なく調べる様になった。夫の不倫は身の危機をもたらすと文花の脳にインプットされた。
夫の不倫はもちろん許せないが、生命を脅かすものだとインプットされると、不思議と罪悪感なく夫の個人情報を調べる様になった。また愛人の素性も調べ上げ、時には素性を隠して愛人の職場に侵入したりする事もあった。
文花は掃除を終えると離れに直行した。
鍵はかかっていたが問題はない。夫に内緒でスペアキーは作っていた。
中に入るとかなり汚れていた。資料があちこちに積み上げられ、机には付箋や登場人物たちの設定資料や進行表が貼られていた。
机の周りには、カロリーオフのスポーツドリンクやダイエット飲料、ぶどう糖の入ったラムネ菓子の空き箱が散らばっていて汚い。
ゴミ袋を取り出し、ついでにそれらをまとめて片付けた。
執筆中の夫は我を忘れて没頭している。多少机の周りが綺麗になっていても気にしないだろう。文花がこうやって夫の部屋を漁っている事は一度もバレた事がないどころか、勘づかれる事すらない。
机の上の登場人物設定が描かれた紙を見ると結婚相談所を舞台にした恋愛小説である事は間違いなさそうだ。
付箋を一枚一枚チェックする。多くは執筆中の描写や資料のメモだったが、三枚だけ変なものを見つける。
『婚活女性の実態をミイちゃんに聞く』
『ミイちゃんの悩みはリアルだ。ストーリーに入れよう』
『ミイちゃんは可愛いなー』
ミイちゃん?
文花の手の平がじっとりと汗ばむ。気づくと付箋を握りつぶし、ゴミ袋に突っ込んでいた。
慌ててそれをゴミ袋から回収する。
おそらく不倫相手の名前だ。
登場人物の名前に無いものだし、付箋の内容から見ても単なる取材先の相手には見えなかった。
机に積み上げられている資料は、アラサー向けの貯金の指南書、恋愛テクニック本、スピリチュアル縁結びの本があった。これらは本の題材的にも合うので問題なかったが。
「浅山ミイ…」
付箋と同じ名前が書かれた本を見つけた。
『ブスでも結婚できる方法』
『ブス向けナチュラルメイクテク』
『ブスの為の恋愛テクニック』
三冊あったがどれもブスという言葉が入っていた。三冊ともピンク色の可愛らしいデザインの本だったが、タイトルはなかなか辛辣だ。
その本の間に大学ノートが挟まっていた。
婚活女性や恋愛相談に来る女性の特徴が纏まって描かれていた。手書きだったが几帳面な丸文字で夫のものではない。夫の手紙の文字がミミズが這いつくばったような汚文字で判読が難しい。文花は夫の文字などすぐ判読できるが。
大学ノートの最後のページを見て、文花の目が怒りで燃えた。
連絡先とメッセージが書かれている。『先生の事、好きになっちゃいました。 浅山ミイ』
すぐその下に夫のものと思われる手書きの文字が書き込まれていた。万年筆で書かれ汚い文字だった。内容も酷かった。
『OK!俺、エロい女大好き!』
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