極悪婚活カウンセラー編

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「お忙しいところごめんなさいね」  電話口の文花の声は、言葉と裏腹にちっとも悪びれていなかった。  仕事中、文花から電話がかかっていた。ちょうどデスクで田辺から送られてきた初稿を読んでいる時だった。周りの同僚も忙しそうで、電話に出る常盤の声など気に留めてはいなかったが。 「あのね、少し聞きたいことがあるんだけど、良いかしら?」 「なんでしょう?」 「浅山ミイって人知ってるかしら?」  常盤の頬が引き攣る。  田辺の不倫相手だった。  あのノートを渡して以来、ミイと田辺は急速に仲が進展し不倫関係になった。田辺から礼を言われた。ノートの事や結婚相談所を小説のテーマに提案して事をとても感謝された。同時になんと初稿を五日で書きあげ、データを送ってきた。驚異的な速さである。  不倫中の田辺は筆が乗り、原稿を上げてくるスピードが早くなると紅尾が教えてくれた。最短で三日で十万文字書き上げたこともあるという。十万文字というとちょうど文庫本一冊分だ。少ない文字数ではない。  出来上がった原稿は確かに面白く、文句の付けようがない。単純な誤字脱字以外直すところがなかった。紅尾も同じ意見でこのまま校正し、誤字脱字を直して刊行する予定だった。  編集者としてはありがたい話だったが。 「主人が取材先出会った女性みたい。常盤さん、何かご存知?」  何も言えずに喉の奥が詰まったようになる。確かに常盤は何もしていないが、結果的に不倫の片棒を担ぐ事になってしまった。  あのノートは紅緒に相談し、結局田辺に渡した。 悩んだ。  ギリギリまで渡すべきではないと思っていたが、紅尾によると「田辺先生は不倫中はいいものが書ける」という。編集者として「いい作品が出来上がる事」と「妻が悲しむ事」を天秤にかけた際、やはり前者を優先する以外になかった。  それに田辺が必ず不倫するとは限らないとたかを括っていた面もあった。  決して意図的に文花を傷つけたいわけでがなかったが、こうして電話をかけてきた事を考えるとおそらく何か勘づいたんだろう。電話口の文花の声は抑えてはいるが、怒りが滲んでいるように聞こえた。 「そう。答えられないのね」 「いえ。あの、そうですね…。あの」  オロオロと意味もない言葉が漏れるばかりで言い訳すら思いつかなかった。 「常盤さんは、その人の事会ったことある?どんな人だった?」 「ええと、そうですね。ぱっと見アナウンサーや社長秘書みたいなキリっとした美人で…」 「なるほど。夫が好きそうなタイプね」  恐ろしいほど文花の声は冷ややかだった。常盤の背中も凍りつきそうだ。  田辺の原稿が早く上がって喜べるのは束の間だった。まさかその妻の警察のような尋問にあうなど思っても見なかった。  いや、どこかでこうなる様な気もしていたが、見て見ぬふりをしていた。 「あのノートを渡したのはあなたね?」 「なんでわかるんですか!」  思わず大声が出てしまった。  周囲の同僚は、スルーしていたが、咳払いをして声のトーンを落とす。 「そうですけど、取材のために必要だったんです」 「余計な事してくれたわね」  ひっという声が出そうなぐらい文花の声は怒りが滲んでいて冷ややかだった。恐ろしい。この場から一刻も早く逃げたくなった。 「まあ、良いでしょう。それで、あの女が何か言ってた? 全て話してくれません?」 「はあ…。わかりましたよ」  警察の尋問に観念した犯人のような気分だった。 常盤が知っているミイの情報を全て文花に話した。取材先で田辺と意気投合した事や昼出版にやってきた事なども全て。 「あとは? あとは何か気づいた事あるかしら?」 「そういえば」  ミイはあの後もう一回昼出版にやってきた。常盤に用ではなく、エッセイ本の編集者に自身の原稿を売り込んでいた。もっともやんわりと断られ、あしらわれていたが。その事も文花に話した。 「そう。ありがとう。また何かあったら連絡して下さい」 「あの、何かとは?」 「ミイの事ならなんでも。絶対報告してちょうだいね」  文花は念を押して電話を切った。電話が切れると常盤はぐったりと疲れため息をついた。
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