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洗面所の蛇口から出た水が、奥の洋室にも響き渡るほど激しい音を立てる。
アイスクリームショップでのアルバイトから帰宅した桃佳は、今日も必要の二倍以上の水量で手を洗った。友人たちから「結婚相手に怒られそう」といじられる、桃佳の悪癖の一つだ。
キッチンを横切り、七帖程度の洋室に入る。恋人の優也から誕生日にもらった壁時計に目を合わせ、呟く。もう九時か。
お気に入りの白いブラウスを脱がないまま、どかりとソファに腰を下ろす。トートバッグから飲みかけのペットボトルを取り出して一口飲み、無気力な手つきでスマホをいじる。
早送りに値するような二十分間を過ごした後、甲高いチャイムの音を耳にした桃佳は、前髪を軽く整えてから玄関へと向かった。
※ ※ ※
「わりーな、こんな時間に。しかも、お邪魔しちゃって」
そわそわと部屋を見渡しながら、サークルの男友達である明宏が言う。
「ううん。外出るのめんどかったから。座っていいよ」
「ありがと」
ぎこちない動作でソファに腰掛けた明宏が、不安定な眼差しを桃佳に向けた。
「てか、大丈夫なの?」
「ん、何が?」
「その……」
「あー、大丈夫だよ。優くんはこれくらいゆるしてくれる」
ゆるすわけないだろ、という声が心の中で聞こえたような気がしたけれども、桃佳はそれに耳を傾けることなく、ペットボトルに残ったわずかな緑茶を飲み干した。
「じゃ、早速教えてもらっていい?」
桃佳が頷くのを待たずに、明宏はカバンから計量経済学の教科書を取り出した。
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