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1♦︎ 地下へ行け
種が芽吹く瞬間を見たことがある人は、一体どれだけいるだろう。
種は、土の中で星のまたたきを何度見過ごしたか。水のきらめきを知らないままに吸収し、太陽の日差しを浴びないまま温かさを得る。
ありふれた奇跡を、一体どれだけの人が知っているのだろうか。
目を覚ますと、祖父がいなくなっていた。意識を失う直前まで、祖父が椅子に座って心配そうに私の頭を撫でてくれていたのを覚えている。あれだけ苦しんだ熱はすっかり引いていた。
祖父を探すため寝室を出る。十分に歩けはするが、砂嵐が吹いているかのように視界が悪い。ここしばらく、まともな食事をしていなかったせいだろうか。
──一週間。高熱でうなされていた期間だ。その間、祖父はつきっきりになって看病をしてくれていた。
ツタが這う壁を手でなぞりながら階段を下りる。祖父は凝った人で、壁一面に植物の姿を描き込んだ。椅子やテーブル、窓枠にも実際にあるのか、空想のものなのか、しかし確かに植物であるということがわかるものを刻み込んだ。まるでそれが自分の役目だというように。
私が食卓へ下りると、祖父は大抵なにかしらに植物を付け加えている。私に気がつくと、「もうそんな時間か」とポットに水を汲みはじめるのだ。
しかし、今日はそんな祖父の姿はない。
彫刻刀や絵の具、ナイフなどは工具棚に揃えておさまっている。一週間前まではなかったのに、棚の側面にカエデに似た葉がいくつも描かれていた。
今までに感じたことのない、人気の失せた部屋──祖父はもうこの家にはいない、という確信が何故かあった。祖父のいない朝は初めてだったから、そう思うのかもしれない。しかし、私の直感がどうしても首を横にふらなかった。証拠ならそこにある、机の上を見てみなさい、と。
半分に折られた紙がカラフルな植物にペイントされた小石に固定されている。小さい頃、私が祖父にリクエストして描いてもらったお気に入りの絵だ。いつの間にかなくなったと思っていたが、祖父が私の代わりに保管してくれていたようだ。小石をポケットにしまって二つ折りになっている紙を開く。
私の部屋に地下へ続く扉がある。
地下室にある種を開芽させなさい。
あとのやるべきことは、その子に聞くように。
質素な手紙で、脈略のない内容だ。凝り性な祖父のことを思うと、意外。しかし、私の熱が下がるのを待っていたかのような用意周到さも感じる。
とはいえ、今の私には祖父しか頼れる人はいない。祖父が「地下へ行け」というのなら地下室を探検してみるし、「種を植えなさい」と言われれば大きくて分厚い種を植えよう。例え、こんな世界になってしまっていたとしても──。
祖父の部屋へ向かう途中、出窓のカーテンが開けられていて、朝日が差し込んでいた。窓の外の世界は相も変わらず、死んでいる。
3ヶ月前、【神の大選別】が行われた。
雲の割れ目から降り注いだ光熱により、大地は焼かれ、山脈は砕け散り、動物たちは塵になって海は砂漠と化した。そして、人間も……全てが終わったあと、残っているのは私と祖父、そしてこの家ひとつのみだった。
なぜ神が私たちを残したのかはわからない。そして、外へ出ようものなら有毒ガスで死ぬように、家に閉じこもらなければならない状態にしたのは何故なのか。祖父も私も、選別を受けた側。何もわからない。神の考えていることなんて、何も。
祖父の寝室には確かに地下へ続く扉があった。ベッドの下の絨毯をめくると出てきたのだ。
祖父の部屋には、あまり入ったことがなかった。理由は、何もなくて面白くなかったから。廊下の壁や階段の手すり、トイレや食卓は植物のアートだらけなのに、私と祖父の部屋だけはウッド調のシンプルな部屋のままだった。祖父は仕事とプライベートはきっちり分ける方だったのだろうか、と今更ながらにふと思う。外出もできないし、家の中でできることといえば限られている。その中で植物を描くということを仕事にして日々の生活にメリハリをつけていたのかもしれない。
この部屋で唯一、読書用の照明の隣、写真立ての枠に優雅に枝を撓らせた樹が描かれている。廊下の壁のように隙間を埋めるかのようなものではなく、一株だけ堂々と描かれた樹からは祖父の威厳のようなものを感じた。色あせた祖父と私が、その樹に守られているかのようだ。
祖父の部屋から地下室へ。階段を下りていると明かりがなくなり、ライトを持ってこなかったことを後悔したが、1ヶ月前についに最後の乾電池がなくなってしまったことを思い出してため息をついた。暗闇の中、今まで下りてきた感覚で階段を下りるしかないと気を定めた頃、地下室の扉に鼻の頭がぶつかった。押して開くタイプのようだ。木製だろう、なんとなく温かいドアノブをひねると、意外にも明るい部屋が現れた。
吹き抜けになっている。といっても、天井から見えているのは地面の土を剥いだ部分だろう。
この家にこんな部屋があったとは知らなかった。おそらく最近つくったものではない。壁伝いに並べられた木棚は太陽光によって色あせ、白っぽくなっている。祖父はこの部屋で一体なにをしていたのだろう。
『地下室にある種を開芽させなさい。あとのやるべきことは、その子に聞くように。』
祖父の残した手記を思い出す。
地下室にある種──なるほど、このガラス扉がついている棚の中に植物の種であろうものがズラリと並んでいる。平たいガラス製のケースに保管された種にはそれぞれラベルが張ってあった。ローマ字読みでは到底読めないものもあったが、それなりに読めるものもある。正しい読み方かは、わからないが。
ところで、ここには数え切れないほどの植物の種が保管されているが、“祖父が望む種”はどれだろう。
目印がないか、一通り棚を眺めながら歩いてみたが、それらしきものはない。
何でもいいのだろうか……。
──私が選んだ種でいいのだろうか?
祖父もそれを望んでいるのかもしれない。私が自分で選んだ種を開芽させることを。
……初めてだ、自分で決めるなんて。
自分が決めることに正解はあるのだろうか。もし、間違っていて大変なことになったら?
いや、今さら大変なんてものはない。3ヶ月前に世界が終わってしまっていること以上に大変なことがどこにある。
そうとなれば、名前がわかる種がいい。四つ棚を戻って目線の先にあるケースを取り出した。
〈zelkova serrata〉──イチジクの実をそのまま乾燥させてミニマムサイズにしたような形の種だ。
さて、種は選んだ。この種を土に埋めて水をあげて……。
ああ、土だ。この家には土がない。植物はいくらでもあるが、それは本物ではなく祖父の創造物であり、土や水を必要としない。
どうしたものか。土の代わりになるようなものがあればいいが──しかし、地下室にはガラス皿にぽつんと入れられた種がコレクションされているだけで、その他園芸用品といったようなものは何一つない。この部屋は、ただただ種を保管するためだけの部屋らしい。
仕方ない、一先ず上へ戻ろう。
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