1♦︎ 地下へ行け

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 ──リスだ。食卓にリスがいる。  地下室の階段を踏み外さないように慎重に上りきって祖父の寝室に出た頃、食卓の方から大きな物音が聞こえた。てっきり祖父が食器でも落としてしまったものと思い、慌ててやって来たのだが、そこにいたのは3ヶ月前を最後に見納めしたはずのリスだった。    この死んでしまった世界にまだ生き物がいたんだ!    リスは忙しなく机の上を駆け回っている。鼻をヒクヒクさせて私と同様に興奮しているようだ。床に落ちて無残に割れている小瓶はほぼ間違いなく彼の仕業だろう。絵の具の調合用に祖父が使用していたものなのだが、もう一つあっただろうか。  これ以上、家のものを壊されないためにも手早く捕獲したいところだが、近づけばきっと警戒して逃げてしまうだろう。・・・・・・しかし、祖父以外の生命が酷く懐かしい。  結局、自分の欲求に負けて手を伸ばしてしまった。それが良くも悪くも、この物語の幕開けとなる“きっかけ”となった。  「キュキッ!」  リスは伸びてきた私の手に気がつくと、手の甲に飛び乗り、一瞬で私の肩まで駆け上った。驚いている暇もない。左肩へ移動すると、二の腕にしがみついたかと思えば、まるで忍者のように静々と下降していく。私のことをアスレチックとでも思っているのだろうか、と思ったのも束の間。狙いは私の左手にある〈zelkova serrata〉の種だと気づいた。このままだと頬袋に入れられる!  種の入ったガラス皿を右手に持ち替えようとした瞬間、私の動きに合わせてリスが右手へ飛び乗った。その時、リスの前足がガラス皿を踏み込み、反動で種が勢いよく飛び上がる。  痛ッ──!  種をつかもうと手を掲げれば、それをいいことにリスが鋭い爪で私の手のひらに自分の体を固定し、首を伸ばす。こうなればリスを放り投げ──はせず、唯一の食料であろう種を一心に見つめる彼を両腕で抱き込み、何を思ったのか私は〈zelkova serrata〉の種を口でキャッチした。  「キィイーーッ!!」  激高か、絶望か、耳をつんざくような声をあげたリスは私の腕の中で暴れに暴れた。彼の爪と歯が恐ろしくなった私は彼を落としてしまう寸前まで姿勢を低くするよう務めたが、私が膝をつく前に持ち前の身軽さで飛び降りてしまった。椅子の下に飛び込み、こちらを睨みつけている。少し高いところから落ちたが、幸い怪我などはしていないようだ。しばらくは、こちらに近づいてくることはないだろう。  さて、この、致し方なく唾まみれになってしまっている種だが───心なしか大きくなっているような。  口の中から種を取り出してみると、小指の爪の半分にも満たない大きさだったのが、どういうわけか三倍に膨らんでいる。水気を吸収して膨張したのだろうか・・・・・・外皮が割れている。そして、その割れ目から純粋なライトグリーンの芽がじんわりと起きがった。    ──開芽だ。  〈zelkova serrata〉が開芽した。いつかの授業で植物には単子葉類と双子葉類があると聞いたことがあるが、この種は双葉なので後者だろう。丸みをおびていた幼い葉は、コマ送りでも見ているかのように徐々に切れ目を増やしていき、最初のものとは似ても似つかないギザギザした葉になった。  テレビでしか見たことのない光景が、いま目の前で起きている。しかも想像を絶する速さだ。いや、私の想像が間違っているのではない、この事象が常軌を逸しているのだ。さらに驚くべきは、芽がどんどんどんどん生長していること。最早、“芽”ではない。柔らかそうな茎はしなる枝となり、幹が垂直に伸びていく。かと思えば、次々と新しい枝が生まれ、それぞれの道を上昇していった。  一瞬といえば、一瞬だったのかもしれない。私の対応が種の生長スピードに追いつけず、 その重さに前のめりにこけた瞬間と〈zelkova serrata〉の先端枝が天井に触れた瞬間は同時だったように思えた。    パンッ!  突如、風船が空気圧に耐えられず破裂したような音とともに枝葉を茂らせ続けていた〈zelkova serrata〉は消滅した。先から何が起こっているのかさっぱりで、脳の情報処理機能がキャパオーバーを起こしている。  どうして種が急速に生長した?  この種はいったい何?  祖父はこの騒ぎになぜ駆けつけない?  「──・・・・・・あっ!」  一体全体、どこからどうやって──  「“マゴ”だ!そうだよね!だってじいちゃんにそっくりだもん!やっと会えた!ぼく、〈ケヤキ〉!ねぇねぇ、水飲む?」  〈zelkova serrata〉と入れ替わるようにどこからともなく現れたこの子どもは何者ですか。
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