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「うわ!血が出てる!それどうしたの!?」
ケヤキに言われて思い出した。右手をリスに引き裂かれていたんだった。血がしたたり落ちるくらいには大きな傷だ。
「かして!」
私の手をとるなり、何故か患部に息を吹きかけはじめたケヤキ。傷口を乾燥させて血を止めようとしているのだろうか?息を吸い込んだ顔が、まるで頬袋にエサをパンパンに詰めたリスのようになっている。そういえば、あのリスはどこにいったのだろう。
最初に逃げ込んだ椅子の下には見当たらない。どこか別の場所へ隠れてしまったようだ。仕様がない。あとで保存食を小皿に盛って置いておこう。この世界の数少ない生き残りなのだから、仲良くしないと。
「どう?痛くなくなった?」
肩で大きく呼吸しながら私を見上げるケヤキの瞳は、子どもさながらのガラス玉のような目をしていた。息を吹きかけるのに必死になったのか、知らぬ間に力がこもったらしく、私の手首にケヤキの小さな手形がついている。
「痛いけど、血が止まったから大丈夫だよ。ありが──」
「なんで痛いの!?」
「え?」
「もう一回かして!」
ふー!ふー!ふーーー!!
「どう・・・・・・痛いの、飛んでった・・・・・・?」
「飛ん・・・?」
痛いのが飛んでいくとは・・・・・・それよりも、怪我をしている私ではなく、ケヤキがとてもしんどそうだ。もしかしなくても酸欠状態になっているのではないだろうか。
「なっ・・・・・・かして!!」
「えっ、あ、飛んでった!痛いの飛んでったよ!」
今にも倒れそうになってるよ!
「よ、よかっ・・・ハァ・・・・・・」
結局、ケヤキは尻餅をついたあと、大の字に寝転がった。
私は今、猛烈に反省している。子どもの扱い方がわからないとはいえ、「痛いの痛いの飛んでいけ」くらいは知っている。しかし、大真面目にそれをしてくれる子がいようとは思ってもおらず・・・・・・いや、私の子ども時代が怪しいのだろうか・・・。ともかく、私が“嘘をつかなかったせいで”この子にしんどい思いをさせてしまった。
私のことを知っているようだったとはいえ、初対面の人間相手に酸欠になるほど治療をつづけるとは、これも子どもの純粋さゆえなのだろうか。きっと親御さんは、この子がいなくなって相当心配していることだろう。
ケヤキが寝ている間に患部の手当は終わった。消毒したのち包帯を巻いたのだが、しばらくは、気をつけて物を持つようにしないといけない。
ケヤキは・・・──まだまだ眠りは深いようなので、食料庫に行ってケヤキが好きそうなものを探してこよう。リスの分も。
食料庫はお風呂場の隣にある。元々は仏間だったのだが、【神の大選別】が起きた三ヶ月前に保存食置き場となった。キッチンや食卓にある食べられるもの全てを分別し、祖父の知識のもと、保存がきくようにそれぞれ何時間もかけて加工した。
けれど、それも意味をなしたのは最初の三日間だけだった。四日目から唐突に食欲がなくなり、ほぼ水のみだけ摂取すれば良い体になってしまったのだ。世界が滅び、見えない将来に対する不安のせいか、はたまた知らず知らずのうちに【神の大選別】を受けており、食欲を感じない体になってこのまま飢える運命なのか、と様々な理由を考えた。自分の体調を経過観察し、ためしにティッシュや皿、壁などを囓ってみたりしながら過ごしてみた末、「本当に私は食べ物を必要としなくなった」という結論に至った。
体重の変化もなければ、顔色も悪くなることはない。水だけ飲みながら一日中家の中を歩き回ったり筋トレをしてエネルギーを使っても空腹にはならなかったし、疲れることもなかった。
ただ、喉は乾いた。その日の活動量が多いと、その分のどが乾く。飲み物に関しては、水以外も飲むことができた。果汁の入ったジュースや牛乳、炭酸飲料水。しかし、その色が濃くなるにつれて大量には飲めない。吐き戻すことはないが、コップ半分だけでも満足できる量になった。
「──マゴ~・・・」
ケヤキが起きたようだ。食卓から突き抜けになっているリビングの畳の上に寝かせていたのだが、よく眠れたようで伸びをしながらこちらへ歩いてきた。
「水、飲む?」
「うん」
流し台へいき、水道から水をコップに注ぐ。我が家の命綱はこの水道のみだ。庭にも水道はあるが、外へ出ればたちまちガスを吸って死んでしまうので、外付けの水道は使えない。 世界が滅亡し、あらゆるものが消滅してしまったが、水だけは残っている。このことについて祖父が言うには、「始まりに戻っただけのこと」らしい。全ての生物は水中から始まったらしいので、そのことを言っているのだろう。ちなみに、空から光柱がおりてきたXデーのことを【神の大選別】と名付けたのは、私の祖父だ。それもそのはず、その日以降、人類は私と祖父以外にはいなくなってしまったのだから。もちろん、現時点ではそういう結論に至っているだけで、もし世界中のどこかに【神の大選別】を免れた人がいれば話は違ってくる。ただ、私たちはそれを確認する術を持っていなかった。
「もう一杯ちょうだい!」
コップ一杯を一気に飲み干し、おかわり宣言。よっぽど喉が乾いていたらしい。
そういえば、出会い頭に水を飲むかと聞いてきたな。もしかして、ずっと我慢していたのだろうか。
「ケヤキ、お父さんとお母さんはどこ?」
「今はわからないけど、じいちゃんにここへ連れてきてもらうまでは筆陰山にいたよ」
「ふでかげやま・・・?」
聞いたことのない山だ。この辺ではないどこか遠くから来たのだろうか。というより、祖父に連れてこられただと?
「おじいちゃんとはいつここへ来たの?」
「えーっと・・・・・・」
小さな爪のついた指を一つ折り、二つ折り──
「七日前!」
「七日前?」
「うん!」
ついオウム返ししてしまったが、誰でもそうなるだろう。では、一体この子は一週間もの間、この部屋のどこに隠れていたのだ?これだけ元気な子どもが一週間も静かに隠れていることができるのだろうか・・・・・・いや、待て。一週間前といえば、私が熱を出して寝込み始めた日だ。その日から今朝まで、ずっと自分のベッドの上にいた。傍には祖父がいて、ずっと看病を──
「そうだ、おじいちゃんが今どこにいるか、ケヤキ知ってる?」
「たぶん外だよ!」
「外?家の?」
「うん!」
そんな。どうして。
「マゴ?」
窓から見えるのは、真っ赤な世界。空も、土も、視界に写る全てのものが消滅した生物の血液を全て吸い取ったかのような色をしている。ここから見る限り、祖父の姿はない。
「そんなことすると手の怪我がひどくなっちゃうよ・・・!」
うちの窓は少し高いところにある。窓の桟に手をついて背伸びをしていたら、ケヤキが私の右腕を引っ張った。
そういえば、リスにひっかかれて怪我をしていたんだった、と思った時には固まりかけていた傷口が裂けて、包帯に鮮血が滲んでいた。
「あー!どうするのこれ!これと同じのってある!?僕がやってあげるよ!これどこにあるの!?」
これ!これ!と私の手に巻き付けている包帯をつっつくケヤキ。血の滲んでいない手首付近を優しくつついてくるあたりに彼らしい気遣いを感じる。
「大丈夫、あとで自分でやるよ」
「えっ・・・!」
家正面にいないようであれば、裏の勝手口に祖父はいるのかもしれない。足にしがみついてくるケヤキを仕方なしに抱き上げて裏口へ急ぐ。そもそも、外へ出ると死ぬとわかっておきながら外出したというのであれば、安全に外出できる方法を祖父は知っていたのかもしれない。でも、私はその方法を知らない。だから、祖父が無事である確認をする必要がある。
「マゴ~!じいちゃんを探しても意味ないよ!近くにはいないから!」
「どうしてわかるの?」
「どうしてって・・・・・・マゴ、気づいてないの?」
「?」
同じ目線で大きな瞳と目が合う。朝日を浴びたケヤキの瞳は鮮やかなオレンジ色をしていた。
「僕を開芽させたってことは、マゴが育生者の力を開花させたってことで、そうなるとマゴのお世話をしていたじいちゃんは役目を終えたからここにいる必要はなくなったってことになるんだよ」
今までのつたないおしゃべりはどこへやら。子どもらしからぬ単語を詰まることなく早口にまくしたてたケヤキは、最後に一言つけ加えた。
「全部教えてあげるから、一杯飲も!」
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