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十月桜 第7話
椿の時期が終わり、桜が開花するころ、忍は桜の庭園へ十月桜を見に行った。
園内には緋寒桜やしだれ桜など、さまざまな種類の桜が植えられていた。山桜が白い花と若葉を同時に繁らせ、ソメイヨシノが淡い桃色の花を咲かせている。
十月桜は園内の片隅にあった。ソメイヨシノよりもまばらだが、あの日よりはたくさん小ぶりな花をつけている。忍はふと、皮肉だと怒った氷青の顔を思い出していた。あのときの桜は、盛りが過ぎた望楼の華と、華を抱こうとしない自分への皮肉だったのだろう。だが、花には何の意味もない。ただ与えられた命を全うするために、春の冷たい風に花びらをそよがせている。
十月桜を見上げる自分の横に、影が射した。忍が振り返る。相手も驚いたように忍を見つめている。
「お久しぶりです」
氷青は少し髪が伸びていた。氷青は望楼の者に殺されたわけではなかったのだ。胸に安堵の細波が広がる。
「十月桜を見に来たんですか?」
「……君も?」
氷青は一重の大きな目をうるませて、はにかむように微笑んだ。
「いつかあなたに会いに行きたかったんです。ここで会えるとは思わなかった」
「今、君は何をやっているんだ」
「工員ですよ。最近ようやく、現場に慣れた」
少し冷たい風が、桜の枝を揺らしていく。忍は、氷青が生きていてよかったと思った。
「……私は、望楼の華は人知れず始末されてしまうのだと思っていたよ」
「そんなことはできません。大抵、コンビナートで働いていますよ。この街にいる限りは、自由になれます」
それでは、子供のころに見た「月」も、この巨大なコンビナートのどこかで生きているのだろうか。
「連絡をくれればよかったのに」
「病院で検査が必要だったので」
「具合が悪いのか?」
「性病や肝炎の検査をしていました。僕は意志が弱いので、結果が出るまで、あなたとは顔を合わせたくなかった」
「結果は?」
「異常なしです」
氷青が唇に微笑を滲ませる。自分の心が安らぐのを、忍は感じた。人の笑顔で心が和むのは初めてだった。いつの間にか、忍は自分がこんなにも氷青に気を許していたのだと思い知る。
「落ち着いて話ができる場所へ行きませんか? ここはちょっと寒いから」
「じゃ、家に行こう」
氷青は少し驚いたように目を瞠ると、嬉しそうな顔で頷いた。
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