十月桜 第8話

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十月桜 第8話

 忍は氷青と共に家へ帰った。古い家を囲む椿の林を見て、氷青は望楼のようだと感心した。 「こんな広いところにひとりで住んでいるんだ。お掃除もするの?」 「ハウスクリーニングの業者に頼んでいるよ」  氷青は縁側に足を投げ出して座りながら、やっぱりお坊ちゃんだ、とひとりごちた。忍が苦笑して縁側に煎茶の盆を置く。 「海は見に行った?」 「コンビナートの護岸壁ならいつも見てるよ」  煎茶を啜りながら、氷青は目に淡い影を落とした。 「望楼を知る人間はここから出て行けないんだ。秘密を守るためにね」  あなただってそうだ、と氷青は盆をよけると忍の手を握った。 「あなただって、この土地から離れられないんだろう」 「ここには父が眠っているから」  氷青が目を細めて手に力を込める。 「あなたはまだ、父親が好きなんだ。あんな目に遭っていたのに」 「私は父に愛されていたよ」 「あなたの苦しみを悦ぶのは愛情じゃない。ほんとうは、父親があなたを愛していないことを知っているから、あなたは今も苦しんでいるんだ」 「私の家の人間は、ああすることでしか子供を愛せないんだよ。旧家の呪いのようなものだ」 「だからあなたはひとりでいるの?」 「この家は、私が終わりにする。その償いのために、私は父のそばにいたいんだ」  氷青は握りしめた忍の手をそっと撫でた。忍は目を閉じて、氷青にされるがままになっている。 「あなたは愚かだ。あなたはこんなに美しいのに。幸せになろうと願えば、いくらでも幸せになれるのに」 「私は君が思うほど自分が不幸だとは思っていないよ」  目を閉じた忍に、暖かい空気が覆い被さってきた。氷青が忍に腕を回して、忍の身体を抱きしめる。 「まばらに咲く愛情しか知らないから、あなたは自分が幸せだと思うんだ」 「そうかもしれないね」 「あなたはまだ、満開に咲く桜を知らない」  氷青は胸の奥へ忍の頭を引き寄せた。 「ほんとうの愛情がどんなものか、わからない」  氷青の鼓動を聞くと、心が安らいでくる。忍は氷青へ身体を預けた。氷青の腕の力が強くなる。 「あなたを抱きたい」  氷青は忍の頭に頬を寄せて、そっと忍の髪を撫でた。 「あなたの心に、正しい足跡をつけてみたい。あなたが望むなら、僕があなたに抱かれてもいいよ」 「私はたぶん、誰も抱くことができない」 「人を傷つけるのが怖いから?」  氷青の熱に煽られる。忍は耳まで赤くなるのを感じながら、自分の身体の熱を持て余す。 「僕はあなたに抱かれても傷つかないし、あなたを傷つけもしないよ。だから僕に、心を任せて」 「私は君よりずっと年上だよ。こんな身体を君が抱けるのかな」 「抱けるよ」  忍の身体を離すと、氷青は忍の額に唇を押しつけた。 「あなたは自分の美しさを自分で知らないんだ」
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