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心音(番外編)
行為の後、氷青はベッドで忍の髪を撫でながら、
「忍さんは僕の胸元が好きだね」
と言った。忍は氷青の裸の胸に頬を押し当てて、そうだね、と呟く。
「意外と甘える人で、安心した」
日曜日の朝、十歳年下の恋人は満足そうに自分を見下ろしている。恋愛の経験がほとんどない自分は、人への甘え方を知らなかった。三十七歳の男が人に甘える姿が気持ち悪いと思っていたからだ。が、氷青はそうは思わないようで、猫のようになつく自分を嬉しそうに抱きしめている。
「氷青といると、安心するんだ」
「どうして?」
「どうしてだろうな」
安心できる人。安全な人。自分のなかにどこまで深く入り込んでも、安心できる人。交わっても交わらず、染まっても染まらずに、自分のなかから帰ってこられる人。
氷青なら、どんなに自分の深くに入り込んでも大丈夫だと、忍には思えた。だから氷青は自分の愛する人なのだと、忍は氷青の胸に耳をつけながら考える。
氷青の心音が、耳に響く。落ち着いた、快いその音を、忍は目を閉じてじっと聞いた。波のように規則的なその音が、忍の心をやわらかくする。
「氷青はいつも、落ち着いているな」
「それは、好きな人といっしょにいるからだよ」
忍はふと、子供のころの記憶を思い出していた。望楼という娼館で、父に抱かれていた記憶。
忍は今の氷青と同じように、父親の心音に耳を傾けていた。父の心音が逸るとき、父は激しく自分を抱いた。
忍は父の心音が鎮まることをずっと願っていた。
激情にかられた父が恐ろしかったのだと、今更ながらに思い出す。
「お父さんは――」
最近、自分の傷を晒すように、氷青へ父のことを話すようになった。
「お父さんの鼓動が速いときは、お父さんが怖かったよ」
自分の身体に回された氷青の腕の力が強くなる。父と自分の関係を深く知っている、唯一の人間。ライナスの毛布。氷青は父との罪深い行為をどこまでも赦してくれる。
「だから僕は、お父さんの心音でお父さんの機嫌を見ていたんだ」
「だから僕の胸に耳を当てるのが好きなんだね」
氷青が忍のつむじにキスを落とす。
「僕の機嫌も見なきゃいけないと思ってた?」
「わからない。無意識にやっていたから――」
つむじに落ちた唇が、今度は額に落ちてくる。
「僕がドキドキしているのはあなたが綺麗だからで、僕が安心しているのは、あなたが幸せそうだからだよ」
唇に落ちてくるキスを、目を閉じて待つ。上唇をやわらかく包まれて、忍は恋人の唇をゆるく吸い返す。
「僕のそばにいるあなたが一番安心してくれると、僕は嬉しいよ」
「ドキドキされるのが嬉しいんじゃないのか?」
「僕に抱かれているとき、最高にドキドキしてくれるから、いいんだ」
胸の鼓動がだんだん速くなる。氷青が自分を愛してくれている。想いと心音が伝線して、自分の頬が紅潮する。
「思い出してくれた?」
氷青が悪戯っぽく笑う。
「僕を誘っているような顔をしてるよ」
髪を梳く指に、自分からキスを落とす。自分がこんなふうに他人に甘える人間だということを、忍は半年前まで知らなかった。
「誘われてくれるか」
「ものすごくそそられるよ」
唇をひらく氷青の舌を、やわらかく受け止める。忍は高鳴る鼓動を感じながら、氷青の心臓も同じリズムで鳴っていることを願った。
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