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足音(番外編)
天ヶ瀬忍(あまがせしのぶ)は来週の投扇興の宴に出ることを父に断った。
「もう子供ではないというわけか」
父は大きなうすい唇を引き延ばして笑った。美しいひとだと心がふるえる。
「でも、家のしきたりには従わなければならないよ」
石油化学コンビナートの頂点に立つ天ヶ瀬家には、数々の謎めいたしきたりがある。子供を生んだ女は家を出ていかなければならない。女児が生まれたら、その子供は里子に出される。家の者は男ばかりだが、一族の者しか知らない望楼という娼館へ通わねばならない。
そして忍の家だけの秘密。父と子が交わって、子が第二次性徴を過ぎたら捨てられる。
自分は来年の春に東京の高校を受験する。そうすれば父から用済みの烙印を押されるのであろう。忍はできるだけ父への思いを抑えようとした。が、父は休みのたびごとに家に戻っては忍を抱くのであった。
「忍も私と出席すると伝えておく」
父は鷹揚な笑みで忍に一族のしきたりを強制した。
投扇興は本家の座敷で行われた。
畳の上に緋毛氈を引き、投扇興の道具が置かれている。投扇興とは古くからの日本の遊びで、枕という桐箱の上に立てた駒を扇で倒し、駒である蝶と扇の形で採点する。蝶と扇のかたちには源氏物語の名前がつけられ、その銘で点数を競う。
親戚の者たちは投扇興の銘に四十八手を重ねていた。投扇興の後、そのかたちで望楼の華と睦み合う。投扇興はいわば望楼の前の余興であった。
忍の番が回ってくる。忍は鮮やかな扇のなかから璃寛茶(りかんちゃ)の扇を取り出すと、扇を横に開いて滑らせるように投げた。
枕の上に蝶が倒れ、扇が緋毛氈の上に落ちた。松風だ。四点とは平凡な点だと、忍は醒めた頭で考える。
忍がどんな銘を出そうと、のちの望楼の行為には関係なかった。父はそのときの気分で忍を抱いた。忍が十歳になってから五年間、睦み合う行為は続いた。幼少のころから、忍は父を愛する人として慕っていた。が、最近は父が求めているのは忍ではなくいとけない子供なのだと知ってから、忍の心は燃え上がらなくなっている。
自分は期限付きの恋人にすぎない。忍にとって、父は永遠の伴侶であったというのに。
その寂寞とした孤独が、忍の心を蝕んでいった。
父が扇を投げた。春の若葉色の扇であった。扇は倒れた蝶を乗せて緋毛氈に広がっていた。夕顔。八点とはあまりいい点ではなかった。
父はすれ違いざまに忍へ囁いた。
「今日は私の上に乗るか」
忍は冷たい一瞥を父へ返しただけだった。
「最近のお前はつまらないな」
呟いて宴の膳のもとへ戻っていく。
先に裏切っていたのは父のほうではないか。忍は宴の座敷を出て、縁側へ座ると庭の椿の木を眺めた。椿は濡れたような濃緑色の葉を丸く茂らせている。
私はもともと壊れた扇であったのだ。父に無理矢理ひらかれ、打ち捨てられる、換えのきく扇のような存在であったのだ。
私が父をいくら愛しても、父はいずれ私のもとから去っていく。遠ざかっていく足音の幻聴が聞こえる。忍はうつろに椿を眺めながら、身をふるわせた。
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