行く春2

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行く春2

 真生は家を出ると、県道を出て市街へむかうバスに乗った。春物のコートを着て来たのに、夜気が冷たく感じられた。  あの言葉の意味を、真生は考え続けていた。里枝子が自分のことを好きだったなんて、考えたこともなかった。真生が絵のモデルを依頼されたときも、下級生に告白された話をしたときも、里枝子は淡々とした態度を崩さなかった。好意の片鱗すら窺えなかった。  真生は高校二年の途中から演劇部にはいった。友人で演劇部部長の河野妙が、人手不足を理由にむりやり真生を入部させたのだ。そうしていきなり『人形の家』のノラを演じることになり、一ヶ月間特訓させられた。その劇が市の演劇コンクールに入賞して、真生は学校の後輩や他校の男子生徒から告白されるような身分になってしまったのだ。  ステージに立つのは楽しかった。目立つのが嫌いだと思っていた自分に、激しい一面があることをはじめて知った。背筋や指先がはりつめて、何かに取り憑かれたように動き出す感覚。自分が真空のように観客の意識をひきつけているのを知る、高揚感。  里枝子の絵をはじめて見たのも、同じころだった。あまり話したこともなく、物静かな優等生だと思っていた里枝子の絵は、本人の印象からは遠くかけ離れていた。  二号舎の渡り廊下に飾られた工場の廃墟の絵は、市の絵画展の銀賞を受賞していた。錆色の鉄骨や、剥き出しの旋盤のうえを、木々の緑が覆い被さるように空へ伸びている。炎の舌のような木々の枝が嵐の予兆を暗示しているようで、その絵の孕む不穏さが真生の目を捉えて離さなかった。  怖い絵だね、と里枝子に言ってから、失言だと思った。里枝子は一瞬目の焦点を遠くして、困ったような笑みをうかべてから、 「心理状態って出るんだね。すごく激しい絵になっちゃって」  と言った。里枝子は両親から美大を受験することを反対されていた。この絵は両親を納得させるために強引に描いたものだという。 「絵なんか描いて何になるんだって、親が言うのね。すごくショックだった。子供のころに絵の塾に通わせたのは自分たちだったくせに」  高校受験の邪魔になるからという理由で塾をやめさせられたのが、納得できなかったのだと里枝子はつづけた。拳を口元へ寄せる里枝子を見て、真生は里枝子が意外と感情的な人間だということに気づいた。  真生は大きく息をついた。学校が近づいてくるにつれて、自分が落ち着かなくなってくるのがわかる。里枝子は自分のことが好きなのだろうか――あまり考えたくない疑問だった。里枝子に本気で好きといわれたら、気持ち悪いと思ってしまうだろう。自分の気持ちが愛情に変わるとは、到底思えない。  降車するバス停のアナウンスが入る。真生は気を取り直したように首を振ると、座席から立ち上がった。    こんな時間に学校へ来るのは始めてだった。  水之江高校は旧女学校跡地に建てられた県立の女子校だった。伝統に比例して学校の建物や講堂も古く、鬱蒼とした桜並木が敷地内を縦横に走っている。  真生はバスを降りると、校門の前に立つ人影を見つけた。校門まで歩いていくと、紺のダッフルコートを着た里枝子が真生にむかってひらりと手を上げた。 「久しぶり」  一ヶ月のブランクを感じさせない、あっさりした態度だった。里枝子は毅然としていて、一ヶ月間真生からの連絡を無視しつづけたことなど、すっかり忘れているようだった。  二人は校門を乗り越えて校内へ入った。学校の周囲をかこむように植えられた桜は、薄い霞のような光を孕んで夜空にそびえていた。花びらを零す寸前の桜は、ひどく生々しい感じがする。枝を揺さぶって花を散らしてしまいたくなる。  里枝子からクランベリージュースの瓶を手渡された。まっすぐに自分を見つめる瞳から目をそらす。里枝子はあのことを全然気にしていないようだった。思いつめてるように見えたのは自分の考えすぎだったのだろうか。悩んでいた自分が馬鹿みたいだと思う。  しばらく大学の予定などを話しているあいだに、ジュースの瓶が空になった。 「校舎に入ろうか?」  コートのポケットから鍵を取り出す里枝子に、真生は呆れたように目をみひらいた。 「いつのまに校舎の鍵なんて作ったの?」  里枝子の奇妙な性癖を知っている人間は真生だけだった。里枝子は含みのある笑みを浮かべて、昇降口へ歩いていく。 「私、行かないよ」  里枝子は足を止めると、人形のようにぎこちなく首を傾けた。 「今年でこの校舎終わりなんだって」 「え?」  真生は顔を強張らせて校舎を見上げた。三十年以上の歴史のある、かなり老朽化した建物だが、校舎を建て直す話は初耳だった。 「一号舎だけじゃなくて、学校全体を建て直すんだって。二号舎のイチョウも桜の並木も全部伐り倒すっていう話」 「ほんと?」  里枝子がうなずく。 「今日だけ特別に許してくれる?」  物をねだる子供のような真摯な目。駄目だと言いかけて、真生はふいに言葉を失った。  劇の練習をした古い講堂や、里枝子と一緒に弁当を食べた藤棚のベンチ、静かな教室に涼しげな葉ずれの音を響かせるイチョウの並木――三年間の記憶が、すべて壊されてしまう。  胸を塞がれて、真生は何も言えなかった。迷うように視線を泳がせてから、真生は里枝子のほうへ歩き出した。里枝子はかすかに笑みを浮かべた。  昇降口のガラスの扉に鍵を差す。そっと扉を開いて、二人は暗い校舎のなかに入った。  鍵を閉める音に、真生の心臓がビクンと跳ねた。  昇降口から廊下へ出ると、職員室の前にある熱帯魚の水槽が緑色の光を発していた。その光をたよりに、階段の下へ出る。 「怖い?」  里枝子の声には、笑みの気配があった。 「怖くない」  暗い階段を昇っていった。踊り場の窓にはりついた藍色の空。切った爪のように細い月。真生は怯えを気取られぬように明るく里枝子に声をかけた。 「本当に、鍵を使ったのはじめて?」 「そうだよ。自分で決めたルールだから」  里枝子の家に遊びにいったときに、深い藍色のガラスの瓶に詰まった鍵を見せられたことがある。小学校のプールの鍵、錆びた自転車の鍵、金メッキのおもちゃの鍵。なかには用途不明の鍵もあって、その鍵がどんな扉に続くのか想像するのが面白いと里枝子は言う。  クラスの友人と、誕生日のプレゼントに何が欲しいかという話をしたことがあった。里枝子はそのときベンツの鍵とこたえて皆に欲張りだと笑われた。里枝子は鍵だけを欲しがっていたのに――ひとりだけ笑わない真生を、里枝子は鏡を見るような目で見ていた。 「犯罪者にはなりたくないからね」 「今まさに犯罪者じゃない」 「共犯者がなに言ってるの」  声が廊下に反響する。里枝子がビクリと肩をすくませた。 「大きな声出すとヤバいな」  真生はようやく里枝子も怯えているのだということに気づいた。そのことに気づいたら、かえって落ち着いてきたのが不思議だった。  三階へ上がると、二人は3-Cの引き戸を開けた。整然と並ぶ机のあいだを通って、窓際へ出る。桜の花が街灯に照らされてぼんやりと光っていた。制服のリボンよりも淡い、あかるい色だった。  もう二度とここでこの桜を見ることもない。ふりかえると、里枝子は魅入られるように桜を見ていた。リボンの話を持ち出す決心が鈍る。  このまま何もなかったことにしようか――真生は手のひらに目を落とした。でもどこかに棘のように里枝子の言葉は残るだろう。満開の桜を見ているときに、その薄い紅の色に。 「あの――」 「演劇、続けないの?」  問いを遮られて、一瞬真生は鼻白んだ。 「わからない。妙ちゃんみたいに演劇に詳しいわけじゃないし」 「ノラ役の真生はすごかったよ。才能あるんだから、続ければいいのに」 「あのときは、何もわからなくて、自分に酔ってた。怖い物知らずだったから」 「そんなことないよ。市のコンクールのとき、真生たちの後の学校の演劇部がかわいそうだったもの。すっかり呑まれちゃってたよ」  真生は頬が赤くなるのを感じた。自分が河野妙や里枝子のように努力を重ねているわけではないから、手放しで褒められると居心地が悪かった。羨ましいのは里枝子のほうだった。自分の描く絵が認められて、続けられて――自分には、たやすく予想がつく未来しかないというのに。  かすかに頭を振って、考えを打ち消した。家庭の事情で、家から離れることのできない真生にとって、里枝子の存在は劣等感を刺激する棘のようなものだった。自分ではどうしようもないことだった。里枝子を嫉妬する自分が、醜いと思った。 「桜の一番いい肥料は、何だか知ってる?」  里枝子はぼんやりと桜を瞳に映していた。 「知らない」 「人間の灰」  里枝子が振り向く。淡く、すさんだ瞳の色。 「だから、桜の樹の下に死体が埋まってるっていうのは、あながち嘘じゃないのかもね」  里枝子はほっとしたような表情で手のひらにのせた鍵に目をおとすと、 「そろそろ帰ろうか」  と言った。 「つきあわせて、ごめんね」  首をかたむけて目元を和らげる里枝子に、真生はあいまいにうなずいた。
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