晩涼恋話

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(すだれ)越しの風に当たり風呂上がりで火照った身体を冷やす。紺地に飛白(かすり)模様の甚平はさらりと軽い綿麻素材で目にも涼しげな一着だ。つ、と汗が伝う胸元を少しだけ開き団扇で風を送る。 窓際に置かれた(とう)椅子に腰掛けてすぐ脇の小机の上に手を伸ばし、青い流線が描かれたグラスに入った麦茶を一息に飲み干すと、ガラスと氷が優しく打つかり合いカランと涼やかな音を立てた。 ……夏は嫌いだ。 元来暑いのも熱いのも苦手で嫌いな性分だ。だからギラギラと太陽が照りつけ、蝉が喧しく(かまびす)鳴き、素っ裸でいてもじわりと汗が滲み出るような気温の季節など好きなはずがない。まあ、蚊にも刺されるし、更にやっかいな『虫』にも痕を残されるから素っ裸でなど過ごさないが。 「ラムネいるか?」 不意にキン、と冷え切ったガラス瓶を頬に当てられ、花登由良(はなとゆら)は反射的に振り払おうとした左手をグッと握った。 代わりに無言で下から睨み上げる。 ガラス瓶よりも凍てついた視線の先には、白いランニングシャツに麻素材の半ズボンを着た百目木舟人(どうめきふなひと)がにへらと腑抜けた顔で笑っている。 「いらん」 一刀両断すると、「じゃあ俺が二つとも貰うわ」と向かいの籐椅子に腰掛けながら真昼のように明るい声でそう言った。 由良よりも筋肉のついた舟人の身体を支えて籐椅子がギシリ、と唸る。 「お隣のおばあちゃんから頂いてさ、由良くんとどうぞって」 「……俺は甘いものは好きじゃない」 隣に住む独り身の老女は、舟人と由良を孫のように思っているのか頻繁に差し入れをしてくれる。頂いてばかりでは心苦しいからと、舟人と由良は老女の代わりに買い出しや庭の草むしりなど、体力と筋力さえあれば何とかなるような手伝いを買って出ている。 「婆さん、どうだった」 「ん。元気だったよ。八月も中旬過ぎたのにまだまだ暑くてヤァねってこぼしてたけど」 コロンコロンと、時折ビー玉の音を響かせてラムネを飲みながら舟人が答える。 その上下に動く喉仏をじっと見ている己に気づき、由良はさりげないフリで顔に風を送るよう団扇の方を向いた。 「……お前、だいぶ変わったな」 「何が」 頭の先から爪先まで見られるような、しみじみとした舟人の口調に若干の苛立ちを覚えて即座に言い返す。 「他人を気にするようになったとことか、さっきもラムネ瓶振り払おうとしたの抑えてたろ……そういうところ」 自覚のある変容を指摘されてぐうの音も出ない。出ないがそのまま言わせておくのも癪なので再度睨みつけながら「うるせえ、黙れ」と斬って捨てる。 誰のせいで変わったと思ってるんだ。 その一言は墓場まで持っていくつもりだから、決して口には出さない。 代わりに小さく息を吐きながら、リーン…と微かに聞こえた虫の声と、簾の向こうで波の音のようにザアッと鳴った木々に耳を澄ます。 夏は嫌いだ。 赫燿(かくよう)と照らす太陽のように底抜けに明るい人柄で、馬鹿程デカい向日葵のような笑顔を浮かべていて、じわりと身体に絡みつく真夏の熱気のようにまとわりついて離れない舟人のことも。 ……いや、嫌いだった。根負けして絆されて早数年。 当初は絆されたことを認めるのも己が矜持が許さなかったが、最近はもう張り合うことも阿呆らしくて比較的好き勝手に言わせている。 当時の自分が烈火のように燃え上がる盛夏の正午なら、今の自分は涼風のように心静かな晩夏の夜半だろう。 夏が秋に移り変わるように、人の心も移り変わるのだと、そう教えてくれたのも舟人だ。 「まだ暑いか」 由良の答えなど分かっているくせに敢えて問う舟人だから、由良も挑むように答えてやった。 「……あついよ」 その一言を聞き舟人は満足げに笑った。大輪の向日葵の笑みの奥に浮かぶ光は、まだまだ夏を終わらせたくないという少年のように純粋で、そして欲望に忠実な深い色をしている。 「おいで」 ギイ、と籐椅子を軋ませ立ち上がった舟人が手を差し伸べてくる。その手はひやりとしたラムネの汗に濡れているのに、今も昔も変わらずに熱いままだ。 「ほら、もう冷えてるじゃないか」 いつかのように腕をぐっぐと握りながら言うもんだから少し意地悪をしたくなった。 「なら貴様が温めろよ」 挑戦するように身体を擦り寄せると、一瞬キョトンと目を丸くした舟人は次の瞬間、ボッと火の付く音が聞こえそうなぐらい頬を赤くして口元を覆いながら言った。 「……俺以外の奴にそういうことするなよ」 「ほざいてろ」 するりと猫のようにその腕から逃れて寝屋に向かう。 一拍遅れてやってくる少し慌てた足音に口の端が上がるのを感じながら、腰に手を伸ばして甚平の付け紐を緩めると簾越しに運ばれた涼風が優しく由良の指先をくすぐった。 晩夏の夜はまだ終わらない。
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