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1 迷い込んだ先は
運転中、ほんの刹那、意識の断絶を感じた。
ハッと意識を取り戻す。相変わらずハンドルを握り、相変わらず開けた車窓から、湿り気を帯びた真夏の夜風が流れ込んでいる。道は意識を失う前と変わらず、田舎の堤防上に造成された快走路であった。なにも変わっていない。変わっていないはずなのだが……。
ヘッドライトに照らされたアスファルト舗装の二車線道路が、闇のなかにぽっかりと浮かびあがっている。デジタル表示された時速にちらりと視線を移す。65キロメートル。信号のない堤防上の道は、どこまでも続いているような錯覚を抱かせる。
単調な行程。それで一瞬、眠ってしまったのだろう。
右手だけをハンドルに添え、左手はだらりと垂らしたままのいつもの運転姿勢を維持する。サスペンションが吸収しているのか、振動はほとんど感じない。じっとりと湿った夏の夜、スピーカーからは車メーカーがスポンサーをやっているラジオドラマが垂れ流されており、主人公の社員がしみじみと歳をとったものだと嘆いていた。
なんとなくバックミラーに目をやる。見知らぬ女の顔が映った気がして、思わず振り向いた。いた。ショートカットの黒髪、卵形の綺麗な曲線を描く輪郭、アーモンド型の吊り目。夏らしいノースリーブに身を包んだ、20代前半くらいの若い娘であった。不思議と背筋が凍ったりはしなかった。
「あんた、誰です」反応がないので、声のトーンを上げた。「いつからぼくの車に?」
「ついさっき」
一瞬だけ意識を失ったときにちがいない。なぜだか確信めいたものがあった。
「幽霊かなにか?」
彼女は答える代わりに、かすかに首を振った。
「そろそろ種明かしをしてもらいたいんですがね」
「あたしはあなたの彼女」ため息交じりにそう言った。まるで九九を大人に教えているような態度だった。
「おかしいな。彼女いない歴5年めになるんですが」
「どうしたら信じてくれるの?」
「ぼくの名前は?」
「桐谷薫」
名前くらいいかようにも調べられる。すぐさま年齢や出身大学を聞こうと思い立ったが、もうこれ以上、彼女に自分のことをしゃべらせるのはバカげているように思えてきた。なにを聞いても間髪入れずに正しく答えるだろう。そんな気がした。なにしろわたしの恋人なのだから。
「わかった、降参だ。あんたはぼくの彼女なんだろうよ」
「どういうことなのか、知りたい?」
すぐには答えず、意識を運転に集中した。さっきから一台も対向車とすれちがわない。時刻は21時半前、田舎とはいえ交通量が皆無なのはおかしい。それに道もおかしい。いくら変化に乏しい堤防とはいえ、浅めのカーヴすらなく、滑走路のように直線が続いている。
ここはわたしの知っている道ではない、わたしの知っている道とよく似たまったく別の場所だ。
「いや、遠慮しとくよ」
彼女が口角を上げて笑顔になったのがミラーに映った。いままで見てきたなかで、もっとも邪悪な笑顔だった。「あなたはね、迷い込んだんだよ」
「わかってる、これ以上話すんじゃない」
不意に開けた窓から、いまが真夏であることを忘れさせるような冷気が忍び込んできた。外が深宇宙と直結しているかのような冷たさだ。実際に直結しているのかもしれない。十分ありうる。
減速し、路肩へ車を寄せた。ハザードランプを点け、後ろを振り返る。「降りてくれ」
自称わたしの恋人は億劫そうに腰を上げると、無言で外へ出た。さっきとは対照的なねっとりとした熱帯夜の空気が、冷房した車内へなだれ込んでくる。いやがらせのつもりなのか、なかなか後部ドアを閉めようとしない。
彼女はドアを開け放したまま、雑草の生えた堤防の斜面を滑り降り、まばらな民家が点在する町のほうへと一目散に駆けていった。見かけからは想像もできない敏捷さであった。
しぶしぶ運転席を降りて後部ドアを閉め、バックミラーで彼女が戻ってきていないか何度も確認してから出発した。
そのとき、ふと思い立った。わたしはどこへ向かっているのか自分自身、知らないことに気づいたのだ。
それもよかろう、と思った。
わたしはアクセルを踏み、湿り気を帯びた熱帯夜の堤防を走り続けた。道は相変わらず滑走路のごとく、一直線に伸びている。
心配はしていなかった。そのうち交差路に着くことが、わたしにはわかっていた。
それが人生なのだから。
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