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「まさか」
唇からこぼれ落ちる音もそのままに、私は光を岸へ引きずり上げる。
「それ」は、水中で引き合っていたときからは考えられないほどすんなりと姿を現した。
輝く魚は陸で暴れるでもなく静かに横たわっているが、さっきの今で死んでいるとは到底思えない。
腰の剣鉈を構えて覚悟を決める。
一挙一動を見逃さぬよう睨みつけながら、ジリジリと間合いを詰めていく。
突然魚が大きく跳ねた。
目を逸らさずに飛び退いて距離を空ける。
魚はその眼に私を映したまま、威嚇か捕食か、大きな顎が裂けんばかりに歯を剥き出しにした。そう、思った。
「やあやあ、はじめまして!」
場に不釣り合いな明るい声が響いた。
目を疑うような光景とは、まさにこのことを指すのだろう。
今にも私に向かって噛みつきそうだった魚の顎から、女の人の上半身が生えていた。
もしや、これが人喰い魚の正体か。
人の脚を魚が喰ったように見える、そういう何某かなのか。
ゆったりとした衣を纏った女の人は、にこやかに手を振って友好的な雰囲気で話しかけてくる。
「アンタはこの辺りの人? えっと、雰囲気からして釣り中?」
魚から人が生えた衝撃から抜け出せないながらも、質問に対して首肯する。
「うんうん! 旅先で人に会えるなんて超ツイてる! 一人で観光もいいけどその土地の人に会えるとやっぱり嬉しいね〜」
そう言って彼女は、魚の部分を器用に使ってこちらへ寄ってきた。
信じられない気持ちはあるが、理性があって言葉が通じる相手を前に先程までの緊張感はすっかりと失われてしまい、近寄る彼女を私はただ眺めていた。
手の届く距離まで来た彼女は、足元のバケツを覗き込んだ。
「おや空っぽ」
釣れていれば魚を入れるはずのバケツは、確かに空である。
釣り始めて真っ先にあなたが釣れたので、とは言いづらく、無難な言い訳をどうにか探した。
「――いえ、あの、始めたところだったので……」
「もしかしてアタシ、邪魔しちゃった? あちゃー、それはごめん」
頭を抱えて反省する姿に、かえってこちらが申し訳なく思いつつ、愛嬌がある人だななどとも思う。
登場方法が衝撃的だったために意識できていなかったが、彼女は上半身も非常に美しい。
銀の優美さを持つ下半身とは対照的に、背中まである黒髪は緩やかな波を描き、金銀砂子を散りばめたかのように煌めいている。
長い睫毛も、血色の良い唇も、ほっそりとした指も、現実のものとは思えないほど整っている。
「生業じゃなくて趣味なので、大丈夫ですよ」
「あんがと、優しいね」
美しい人がくしゃりと笑うと、どうしてこんなにも可愛らしく映るのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、「そうですかね?」なんて言葉を返した。
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