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◆
彼女がハッと起き上がった。
「いけない! 寝過ごすとこだった!」
離れた隙間にひんやりとした空気が流れ込む。
覚醒し切らない頭で眺めているうちに、彼女は魚を模したスーツを胸元まで引き上げた。
「もう、帰るの?」
「天の川が見えなくなると、水面と■■■を繋ぐ道が閉じちゃうからね。また夜には道が開くけど、出口が変わるからちょっとメンドくて」
肯定する彼女に、冷えた空気が私の心まで入ってくるような感覚に襲われた。
「そっか」
自分の声音の固さに気付かない振りをして、乱れていた衣服を整えた。
顔を上げると、衣の裾をスーツに押し込み終えた彼女がじっとこちらを見ていた。
「……何か分かる?」
「うん。ちょっと待ってて」
彼女は自分のスーツの中に手を入れて何やら弄り始める。
一体何を知ったのだろう。
目当てのものを見つけたようで、スーツから手が引き抜かれた。
取り出されたのは飴玉の包みに見えた。捻ってある両端を開くと、飴玉では見たことのない不透明な乳白色をしていた。
彼女はそれを自分自身の口に放り込むと、こちらへにじり寄り、私の両頬に手を添えた。
「ろれあえる」
彼女の顔が近付き、唇に柔らかさと軟らかさを感じた。
差し出されたものを受け取って食む。口中いっぱいに甘さが広がる。
離れていく顔の、星空の瞳の中に私自身の姿を見た。
宵闇色の宝石に映る私は、琥珀の中に閉じ込められた虫と似ているように思った。
「近いうちにまた会えるおまじない!
それじゃ、またね!」
にっこりと笑って手を振り、彼女は体を翻した。
体をバネのようにしならせて飛び上がり、スーツを一気に頭上まで引き上げる。空中で魚の顎がぱくんと閉じて、そのまま湖中へと消えていった。
口の中の甘さがなくなってもしばらく湖を見ていたが、あの美しい魚が姿を見せることは二度となかった。
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