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ある朝の出来事
満員電車が大好きな人はいない。
なのに、日本人はいつまでたっても学習しないのである。
これだけテクノロジーが進んでいるのに、何故毎朝ほぼ同時に大量の人間を同じような場所に送り届けねばならぬのか。これを何十年も続けているのだから、阿保なのか? 莫迦なのか?
わざわざ集合して顔を引っ付け合わさなくても事足りることが沢山あるだろうに。こんな狭い箱にギュウギュウ詰めにしてストレスマックス状態で運ぶことに、一体どんな意義があるというのだろう。無駄に体力は消耗するし、イライラして神経は磨り減るし、これで具合が悪くならない方が無理というモノだ。たかだか移動するだけでこんなにエネルギーを消耗するのだ。目的地に着いたとて、パフォーマンスが上がるわけがない。
私は一点だけ視界が開けている天井へ目を向けたまま、周囲のストレスフルな刺激をなるべくキャッチしないように意識を集中することに努めた。まるで修行僧みたいに。
でも、どうにもならないモノもあるわけで。
うー……、くっさ! これ柔軟剤だよね?
私はバックパックを抱えた腕に力をこめて息を止めた。
さっきの駅から乗り込んできて直ぐ前に立った中年女性から、しつこいくらいにねっとりした甘い香りが漂ってくる。私はなるべくソレを吸いこまないように、僅かに開けた口であえぐように呼吸をして、少しずつ体をずらして向きを変えた。
本人は気づいてないんだろうけど、ココまで来たら香害よね。
私はさりげなく周囲に目を配った。皆、虚無の表情を浮かべててんで明後日の方を向いたり、僅かな隙間から手を出してスマホをのぞき込んだりしている。このキッツイ臭いを気に留めるような仕草をするものは見当たらない。
みんな、鼻が莫迦になってんのかしら。
溜め息をついた私の目の前に、唐突にスマホの画面が突き出された。
――「助けてください!」
「へ?」
画面に踊る文字に度肝を抜かれて、私はスマホの持ち主に視線を向けた。左前方の乗客の肩のあたりの隙間にサラサラヘアの頭が挟まっている。顔は見えない。多分、女の子。どう言うことかと目を瞬いていると、スマホの画面が切り替わった。
――「痴漢です!」
ええー?
私はそのサラサラヘアの後ろへと視線を向けた。バーコードハゲで眼鏡をかけたオッサンと、疲れた顔をした若いサラリーマンがいる。
ど、ど……どっちぃ?
車内に次の駅の到着を告げるアナウンスが響いた。この先、減速してカーブに入るので車両が揺れる。私は、バックパックの外ポケットに突っ込んでいたスマホを無理くり取り出し、メモを立ち上げて入力した。うつむく女の子に見えるように画面を差し出す。
――次のカーブでよろけたふりしてコッチ来て
私のメモ画面を読めたのか、差し出されたスマホ画面は引っ込んだ。
「この先車両が揺れまーす! ご注意くださーい!」
車内アナウンスが流れた後、一様にGが掛かってギュウギュウ詰めの乗客が同じ方向に傾いた。女の子が押し出されるようにして私の前へ突っ込んでくる。すかさずバックパックで庇うようにして女の子の身柄を押し込んだ。
圧が抜けた隙間から女の子の手がさし上がる。背広の男性の手首をしっかり掴んでいた。
―― この人! 痴漢です!!!!!
女の子の握り込んでいたスマホから音声が鳴り響き、周囲にいた乗客は私を含めギョッとして若いサラリーマンを注視した。
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