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その会の雰囲気から、俺の頭の中には、夏によく聴く古い歌が流れて来た。
『Don’t Stop Believin』
確か“旅人”という名前のバンドの楽曲だった。『信じることを止めるな』とはどこか、今の会に似ている。研修とやらで訪れた東京という街が相当良かったのだろう。誰にでも希望はある。
でも、俺には少し話が旨すぎるように聞こえる。そう簡単に稼げるのか。オリンピックのボランティアとは簡単なものなのだろうか。
俺にはどうも『楽しそう』とか『期待感』が持てない。ひがみもあるのかもしれないが。
それに俺には“東京”というものに対する羨望が乏しい。夏は静かに過ぎて欲しくもある。
おそらくもう四十を越えているのに、会にはまだ都会(東京)に対する、羨望があるようだ。東京の喧騒とアスファルトの焼ける匂いの夏を期待しているのだろう。
浜松の片田舎でダラダラと派遣仕事で生きている俺には関係の無い街に思える。
彼には、まだ『都会に出たい』という気持ちがあるのだろう。静岡県は県民の県外流出率が高い。そんな若者が多い、と聞いたことがある。
俺も学生の頃は、大学進学で、大阪の中心地近くに住んでいたこともあるが、今はそうした気持ちは無い。あの頃は確かに楽しかった。都会には、田舎とは違う味わいや雰囲気がある。“夏”は都会の喧騒をきらびやかに見せる。
会のは、その夏を“信じたい”のかもしれない。
心を弾ませる会の姿は俺には妙に眩しい。
だが、会はそれだけを俺に云いたかったのではないはずだ。無料通信アプリで言っていたオレンジ(山内)を見た件だ。
「…で、そ、そこ(東京)であの、の、オレンジをを、み、見たのか、か?」
笑っていた会は頭を横に振った。
「違います。浜松っす」
「こっち、ち?」
「ええ…」
「ど、どこで?」
「南区の倉庫です」
アイツ、まだ浜松市内にいたのか。生活はどうしてんのか。リーダーのツンツン頭の真里谷とはどうしたのか、飯尾は、森はどうしたのか。
「俺、東京行く前に稼いでおこうとして、日雇い仕事、入れたんすよ。それもキツいヤツを…」
会の行った南区の倉庫は日雇い労働の中でもそこそこ大変な仕事らしい。大型倉庫内で絨毯やカーテンなどの住居内インテリアをピッキングする重労働だ。
そこで“オレンジ”の山内を見た、という。
「髪は、もう黒にしてましたけどね…」と会が言った。
休憩時間中、会が倉庫の外に出たら、喫煙スペースにいる男と目があった。それが山内だった、という。
「間違い無いっすね。年末に駐車場で揉めた中にいた奴でした。鈴木さん、アイツの口に何か臭いもん、ぶち込んでませんでした?」
それは後輩伊島の特製ニンニク赤味噌だ。乱闘後も慶太郎から「臭い」と怒られたな。
「他のの、や、奴等も、い、いた?」
「いや、あのオレンジ髪は…ってもう黒っすけど、アイツ1人でしたね。森くんとか一緒かと思ったんすけど、見当たらなかったですね。…さすがにもう手を切ったんすかねぇ?」
会は、元仲間の森の去就を心配していた。
会は、あの真里谷らがどういう仕事を“生業”にしていたか、知っているはずだ。それもあるのだろう。
森とは袂を分けたと言え、心配しているのだろう。彼は良い奴だ。
だが俺は、あの森にも“ニンニク”をお見舞いしていて、しかも俺は歯を折られている。会のようには思えない。正直、あの森がどうなっても俺は知らない。
「で、鈴木さんなら、何か知っているかなって…」
「お、俺? なんでだ、だよ?」
「だって、鈴木さん、アイツの仲間と知り合いっしょ?」
それはアキラと司馬の事を言っているようだが、俺はあの二人とも全く連絡を取っていない。
「ご、ごめんな。知らんな、ないいよ」
「そーなんすか? 鈴木さんなら、どうしているか、分かるかなと思ったんすけど。…森くんに直でメールとか送ったら済むんすけど、去年の事があって…」
やはり、会は去年末の“パーキング乱闘”を引きずっている。俺に少しばかりの嫌味を言ったようだった。。
だが、その件で俺に抗弁の余地は無い。俺は今日は忙しそうな女将に砂肝を注文した。今日は俺が会に奢ろうかな。
俺は会と、六兵衛で働いていた中国人女性の話と、彼女が働いている工場の話題を話した。
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