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須井はもう二十年近く、医療機関で事務職に就いている。
高校の頃、担任の勧めに従って受けた県職員の試験に合格すると、いくつかの役所を転々とした後、当時まだ県立療養所であった安座富町病院に配属された。
そしてちょうど三十の齢を迎えようという頃、安座富町病院は民間の医療法人である橘橙会へ移譲され、安座富町中央病院と名を変えた。
今はそこで、総務係長の職を担っている。着任したのは2014年10月のことだ。
さて、この中央病院における総務とは何か。
結局のところそれは、「その他」の仕事が舞い込んでくる何でも屋に近い。
例えば、どの医者の研究費にも属しない学会費関連の手続きは総務課。会議室や設備の管理も総務課。ホームページ更新や取材対応などの広報関係も総務課。院長ら幹部連中の外勤における送迎も総務課。正面入り口にスズメバチが出たときだって、とりあえず総務課が呼ばれるのだ。
広範な業務の割につまらない仕事が多い、というのが経験者の共通見解だった。
しかし須井が不運だったのは、着任からちょうど一年後の2015年10月に電子カルテを導入するという病院を挙げての大イベントが設定され、総務課もそれに向けて何かと駆り出されるようになったことだ。
業務の純増であり、不運としか言いようがない。
真夏のクソ暑い時期。
それまで医事会計システムしかなかった病院に電カルを導入するということで、院内を血管のように張り巡らせるネットワーク工事は、とても重要だった。
それはわかる。理解できる。
だが、もう一度強調するが、真夏のクソ暑い時期だ。
LAN配線工事業者の担当者数名を中心に、電カル製造販売会社の担当SEが数名、病院側のSEが一名、そして須井も同行し、院内をあちこち見て回っていた。素人なので図面など理解のしようもないが、業者任せにして「詳細知らん」では済まないので、行くしかない。
その日も朝イチから、ご一行様が院内を練り歩く。
「須井係長、他の仕事もあるでしょう。僕が代わりに行きますか」
病棟の配線状況を確認しているときにPHSが鳴り、係員の影山がそう申し出た。よくできた部下である。
大変感謝した上で、須井は「うるせーな、ほっとけ」と言って電話を切った。
イライラが止まらない。
もともと、短気な性格なのだ。それはよく自覚している。四十を過ぎればだんだんと丸くなるのかなと他人事のように期待もしていたが、全然ダメだった。
一行は、ぞろぞろと歩いてまわる。
患者の迷惑も顧みず立ち止まっては廊下の天井を見上げてみたり、看護師の迷惑も顧みずナースステーション内をうろうろしてみたり、何かあれば図面を見ながらあーだこーだと話し始める。
そんな中でただ一人、病院SEは広瀬椋太という派遣社員で、須井のお気に入りだった。気のいい若者で、須井の大好物である舎弟感があふれ出ている。
「須井係長、EPSに置くUPSの件ですが」
「なんだ早口言葉かよ。何を何に置くって?」
「もう、ふざけないでくださいっ」
ムキになる、こういうところが可愛い。
部下の影山も昔は素直で可愛いヤツだったが、だんだんと自己主張が強くなってきて、アドバイスとかフォローとかし始めるし、今は鬱陶しい存在になってしまった。
さて、電カル導入において、総務課よりずっと忙しいのが医事課で、そこに佐々木夏人というのがいる。医事係長で、須井よりやや後輩だ。
人事課から聞いた話では、医事課の連中はもうここ数ヶ月、深夜0時前に帰っていないという。いやそんな話を聞かなくたって、彼らの多忙ぶりはよく分かった。自分らよりも必ず遅く帰り、朝は必ず早く来ている。
「仕事の要領が悪いだけじゃねえのか」
いつだったか須井がそんなふうに言うと、広瀬に「佐々木係長、めちゃめちゃ頑張ってますよ」と反論された。SEは総務課より医事課と一緒に動くことのほうが多いので、普段からよく見ているのだろう。
業務を終えた深夜に、佐々木が広瀬を連れて飲みに行っているという話も何度か聞いた。
気に食わなかった。
そもそも佐々木は態度がデカい男で、先輩に対しても遠慮会釈がない。昔から折り合いの悪い相手だ。
ついこないだも、ヤツと衝突した。
「佐々木、再来受付機の設置レイアウトが決まったら、俺にも報告してくれよ。こっちが動けねえだろ」
「あのね須井さん、俺はコトの進捗は経営企画課にちゃんと報告してるし、電カル事案の仕切りはあそこなんだから、それが正規のルートでしょ。言いがかりはやめてくれよ」
「言いがかりだと?」
ほとんど一触即発だった。佐々木の言い分は正しいが、同じ内容を須井にも伝えればより円滑だったはずだ。それをしなかったのは、結局のところ、向こうもこちらを嫌っているからである。
業務のことはこの際どうでもいいが、広瀬がヤツにくっついてるのは気分が悪い。
独占欲ではない。ただ、牽制は必要だ。佐々木とは必要以上には話さないので、広瀬本人に言うしかない。
「オマエ、佐々木と飲みに行ってるみたいだけど、気をつけろよ。あいつは人をいいように使うし、そもそもハラスメント気質だからな」
「人遣いは荒いですね、二人とも」
そういって、少しいたずらな視線を須井に送る。
「俺を一緒にするなよ」
「似てる気がしますけどね」
この頃はまだ良かった。笑い話だったから。
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