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第二章 一日目 その③
船が動き始めてから一時間ほどが経った頃ぼくはデッキへと出ていた。
旅行にはお誂え向きの快晴だった。それを祝うように潮は大河のようにのんびりと移動し、穏やかな音を奏でていた。目をこらすと所々に春を吸収するかのように、桜が浮かんでおり、それが季節のない島へと春を届けているように見えた。
晴れ渡る空に憂鬱な気持ちと共に体を伸ばすと、錆びた鉄のような音が体の中で鳴り響く。どうやら精神だけではなく、体の方も疲労を感じているようだ。
それもこれも全てあのラウンジに漂う鉛を混ぜ込んだような空気が原因だろう。女性が去った後、ラウンジでは会話一つなされていなかった。まあ、それはそれであまり会話が得意でないぼくにとってみればありがたいのだが、ただそれだけではなかった。
探偵という人種の性なのか、どうにもあの場所では全員が全員相手を探るようなそぶりがあるのだ。まるでどうやってライバルを出し抜き、手柄をあげるかのような。
どうせ同じ事件に立ち向かうのだから、お手々繋いで仲良くとはいかなくとも、お手々をつなげる距離までは歩み寄ってもよさそうなモノなのだが、そうもいかないようだ。探偵という人種は他人よりも優れていることを証明することに粉骨砕身するためか、他人と協力することを烈火の如く嫌うのだ。
そんな魑魅魍魎がはびこる空間にぼくのような人間が居られるはずもないのは火を見るよりも明らかだった。
きっと彼等は命の危険にでもさらされない限り歩み寄ることはないのだろう。
そんな風に海を見ながら黄昏れていると、後ろから声をかけられる。
「ねーお兄さん。わたしと遊ばない」
振り向くと、そこには先程までラウンジで携帯をいじっていたギャルがいた。
ラウンジにいた探偵たちの中では、比較的とっつきやすい部類の人間だったからほっとしたが、ギャルの言葉の意味がわからずにぼくは戸惑いを浮かべる。
「えっと……」
「そう言えば自己紹介がまだだったっけ。わたしは上代閖(かみしろゆり)。今年の春からJKになる十五才。よろ」
上代はそう名乗って、胸を協調するようなポーズをとった。
初対面の時も思ったが、目の前の女性はどうにも淫靡な空気が濃いように思える。それはもちろんやたらと露出の多い格好もそうなのだが、それ以上に漂わせる雰囲気や所作の一つ一つがやたらと色っぽいのだ。しかもそれでぼくと同い年ときたものだ。一体どんな人生を歩んできたのだか。
「ぼくは和十(わと)巽(たつみ)。同じく今年の春から高校生になる十五才です」
「へー巽君か。同い年なんだし、敬語はいらないよ」
ギャル特有なのか距離感が近い。
ぼくもこれから高校生になるのだし、これぐらいとまではいかなくとももう少し砕けたしゃべり方をした方がいいのかもしれない。
「じゃあ、さっそくやろうか」
女性が遊びにでも誘うかのように言った。
「何を?」
いきなり勝負でも挑まれたりするのだろうか。だったら遠慮させてもらいたい。ぼくは勝負事が嫌いなのだ。
「性行為」
上代は恥じらい一つ見せずにそう言った。
予想だにしない単語にぼくは固まってしまう。
そんなぼくを置き去りにして上代は喋り続ける。
「昔から興味はあったんだよね、船でやるのは」
「……ぼくたちって初対面だよね?」
混乱のただ中にいるぼくは、そんな常識的でつまらないことを言った。
「だからこそだよ。お互いを理解するには性行為が一番手っ取り早いでしょ?」
まるで常識を語るように上代は言うが、ぼくの生きてきた人生が平凡すぎるのか非常識に感じてしまう。
「あれ、もしかしてあんまり乗り気じゃない?」
上代はぼくの表情からそう感じたのか、首を傾げる。
そして次の瞬間――
「ひっ!」
ぼくの頬を舐めてきた。
突然のことにぼくは情けない声を出してしまう。
「巽君は可愛い声を出すんだね。ますます可愛がってあげたくなるよ。でも、なるほど。この味は……」
上社は飴を舌で転がすようにしてそう言った。
「……何するんだよ!?」
金縛りが解けたかのように、ぼくは声を上げる。
「めんご、めんご。やりたくないようだったから、代わりに確かめてみたんだよ」
「……確かめる? 何を?」
「巽君の人となりだよ」
「……あんなのでわかるの?」
「わかるよ。例えば巽君は基本的には温厚で包容力があるけど、その反面面倒ごとを嫌い、慎重さに欠ける。他にも道徳観や倫理観はそこまで強くはないみたいだね。後は、あまり自分自身のことが好きではないみたいだ。いや、これは自分と言うよりも自分の存在そのものか。自分という存在そのものをあまり好ましく思っていないんだね。うん。自己嫌悪が過ぎるけど、総じて君は典型的なお人好しといったところか」
上代はつらつらとぼくについてあげていく。
「それと……ん? これは、これは、なるほど」
面白いおもちゃを見つけたかのように上代はぼくを見る。
「どうやら巽君は相当感情を隠すのが上手いようだね。それか秘密主義者なのか。いや、あるいはその両方なのかな。感情の奥底にまるで何重も鍵をかけられた場所があるみたいだ。そしてその場所こそが、君の本質なんだろうね」
犯人を追い詰めるように話す様は、探偵そのものだった。
舐められた頬が熱を帯びていく。
「共感覚って知ってる? たぶんわたしはそれを持ってるんだよね。先天的か後天的かはわからないけど。おかげで男限定だけど直に肌に触れるだけでわかっちゃうんだ。この人はこんな人間だ、こんな秘密を持っているとか」
それが真実だとしたら、上代に秘密は通じないという事になる。
そんな考えが顔に出ていたのか、上代は否定した。
「何でもわかるわけじゃないよ。その人間が抱える秘密に比例して、触れあう時間も多くなければいけないからね。犯罪行為なんてのは総じて秘密の割合も多いから、大抵は性行為をしなければわからないよ」
上代はそう謙遜するが、とてつもない能力だ。男限定でも触れあうだけで犯人がわかってしまうのだから。推理する必要も何もない。
おそらく上代が漂わせる淫靡な雰囲気は、それらの経験によって出来上がったのだろう。
「いやーでもここまでわからないのは初めてかな。どう、やっぱりやらない?」
上代のぼくを見る目は、獲物を狙う肉食獣みたいだった。
「遠慮しておくよ」
「残念。まあ、でもこれから一週間近く一緒に過ごすのに空気が悪くなるのは嫌だし、今日の所は諦めるか。したくなったときは言ってね」
上代は軽い口調でそう言った後、ぼくの横に腰掛けた。どうやらまだ会話を続けるようだ。もしかしたら上代もあの空間にいるのが嫌なのかもしれない。それはぼくも同じだったので、同じように腰掛けた。
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