疑心、暗鬼を生ず

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『不条理なこの世界…… 私がいったい何をしたというのだ』 夫婦生活が長くなると、顔を向けない会話が増えてしまいがちだ。ましてや共働きともなれば、すれ違いも多くなる、なおさらだ。顔を向けず、言葉だけを聞いて「ああ」「うん」「へえ」と返事だけをする。慣れてしまうと自然とそうなってしまうのか、今に始まったことではない。 お互いが目を合わせることをしなくなってから、どれ程の月日が経つのかなどは、考えたことさえ無かった。 そう、あの日までは…… ・・・ 「今日も遅くなるんだってよ。まったく、今の仕事になってから、定時に帰ったことなんてありゃしないんだから」 夜勤に出かけるところを、母に呼び止められた。 「そう言うなって。こうやって働けるのも、母さんが娘を見てくれるからだって、感謝しとったよ。お陰で、やりたかった仕事に就けたとな」 「まぁ、あの子は素直でいい娘だし、困らせることなんて、これっぽっちも無いが」 「そうだろ。お祖母ちゃんが一番好きて、言うていたよ」 「それは嬉しいことだが……、でもな、それとこれとは話が違うよ。こんなこと言いたくはないがな、お前が夜勤の日には、いつも帰りが遅いんだよ、何をしておるんだか」 「……んなことはないだろ、では、行ってくるよ」 「でもな、たまには外で一緒に食事でもしてきたらどうよ、ゆっくりとな。ああ見えて、端から見たら綺麗な人だ。あんたがしっかりせんと……」 「しっかりせんと、なんじゃ?」 「いやいや、なんでもない。行ってらっしゃい」 「…………」 意味ありげに言いおって。 妻の行動を疑ったことなどなかったが、言われてみれば確かにそうだった。 派遣社員をしていた頃は常に定時に仕事を終えていたから、食事の支度や家事の時間、娘をみてやる時間等は彼女なりに作れていたし、それに夜の営みだって。 今の仕事になってからはどうだ、当初パートでいた時分は然程気にならなかったが、一昨年の今頃、念願の正社員に昇格した途端に、会社の拘束時間がルーズになった。急遽残業を言い渡されたからと、帰宅が夜の10時を回るのも珍しいことではなかった。私も丁度、中間管理職に上がったばかりで、何時の間にやらお互い、すれ違いの時間が増えた。妻に触れることさえしなくなった。 仕事の忙しさにかまけてコミュニケーションを怠っていた、と言えば簡単な話だ。家の事は母に任せていたし、小学2年生の娘に手が掛かることは無くなった。 まさかなぁ…… 夜勤のあいだ中、疑念が脳裏を渦巻いた。 帰路につく頃には暗鬼が牙を剥き、私は、私が知らない妻の日常を見てみたくなった。 家に着くと気がつけば、妻の洋服箪笥の前に立っていた。 両開きの取手に手を掛け、おもむろに開ける。見慣れぬ服ばかりが目にとまった。 ……いやいやそうだ、外回りの仕事だ、仕方あるまい。動揺を制し、無理やり自身を納得させる。考え過ぎだ、何をやっている。 心を落ち着かせ、苦笑いをしながら視線を逸らすと、ジュエリーボックスが視界に映った。開けてみた。 中にはブランド物の小物が数点入っている。しかし其処には、目を疑いたくなるものまであった。きらびやかな品に追いやられるかのように、結婚指輪が、奥の隅っこにじっと佇んでいた。 ……何故、此処にある…… 自分の薬指を見やった。私は、一度たりとも外したことなどないのに、妻はなぜ…… 狼狽える私は、チェストの引き出しを上から順番に開けていた。ただひとつの目的をもって。その行為が、結果、己の心をどれ程傷つけようとかまやしない。暴走する猜疑を抑えることが出来ずにいた。 一番下にそれはあった。蓋付きの収納ボックスが、ひっそりと隠すように。大小の仕切りに合わせ、色とりどりのそれらは納められていた。黒、赤、パープル、ピンク、花がら。間違わぬ様にと上下ペアで、それはそれは綺麗に並んでいたのだ。 震える手で、パープルのショーツを取り出し、あの独特の、滑らかな感触を確かめるかのように、指を這わせながら広げる。 ……なんて、小さいんだ…… 鼠径部以外は、前後が繊細なレースの透かし彫り。ウエスト部分は、左右が二本の紐になっている。カップを折り合わせた同色のブラも広げてみると、こちらも同様に、レースの細工が施されていた。 ふと脳裏に、それらをつけた妻の姿が浮かんだ。刹那、私の理性は闇に消え失せた。 妄りがましい紫を纏った妻は、妖艶に微笑し、こちらに顔を向け近づいてくる。膝を曲げながら片足を上げ、ゆっくりと。まるで、一本の白線に沿って歩を進めるかのように、動作に乱れ無く、音も立てずただゆっくり。その視線の先に映るのは、無論、私ではない。振り返ると真っ黒な影が、白い歯だけを見せながらニヤついていた。 私を素通りした彼女は、黒い男の前に立つと、しなやかに伸びる両手をそいつの肩に乗せ、掌を返し、赭封蝋を垂らした如くメイクした爪先を、肌に滑らせそっと下に落としながら、物欲しそうな目で誘っている。 疑念を孕んだ妄想というものは、斯くも心の均衡を崩壊させてしまうものなのか…… もと通りに下着を仕舞えたかなどは覚えていない。いわんや、頭を抱え膝を折る私に、そんな意識などあろう筈がない。 その夜、妻には何も聞けなかった。 背中を向け眠る妻を横目に、一晩中酒を浴びた。 ・・・ 妻は、あの日の私の行動をわかっていたのであろうが、何も聞いてはこたかった。 明らかに、証拠をその場に残していた筈だし、仕事から帰った妻は、それを目の当たりにしている筈なのだ。が、私にとっての不都合な真実は、闇の中に置去りにされたかのように、顔を合わさぬ会話、すれ違いの生活、これまで通りの日常が其処にはあった。ただひとつ変わったものは、私の心に点った疑念の火。これだけは、到底消すことなどできぬ。以後、妻の一挙手一投足に対し、異常なまでの関心をもって観察することとなった。 『過ちを償わせねば…… 君が地獄で焼かれる前に』 ……了
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