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どういう意味だろうと黙り込んだ武井に、ひふみは顎を上げて部屋の中を指し示した。
「サンドバッグ使う?」
話の飛距離が大きい。
どうも、盛大に揶揄われているだけのような気がしてきた。
もしかしたら今日のこの時間も、地味に続いている不運の続きなのかもしれない。
「…使わせてもらいます」
それで本当に少しでも気が晴れるなら、と、武井は頷いた。
立ち上がって窓を開けたひふみに従って、部屋の中に入る。同じアパートだから造りはほとんど一緒だ。
玄関脇にある六畳の部屋のドアを開けると、シングルベッドのすぐ横に、武井の背丈程もある立派なスタンド式のサンドバッグが置かれていた。
「吊り下げ式のが雰囲気あって良かったけど、賃貸だと難しいよね」
「これでも充分過ぎると思いますけど」
「素手だと手ぇ痛めるかな。でも私のグローブじゃ、入んないか…」
独り言のように呟いて、ひふみは部屋を出て行く。
一人暮らしの女性の部屋にいるというのに、まるでそういう緊張感を感じない。間違いなく、素気ない程シンプルな家具と圧倒的な存在感を誇るこのサンドバッグの所為だ。ひたすら紙と本で溢れ返っていたダイニングも同様、武井が今までの人生で見てきた女性の部屋とはかけ離れている。
寝室に戻ってきたひふみは、武井に軍手を手渡した。
「大して厚みはないけど、無いよりマシかと」
「…ありがとうございます」
嵌めてみると、少しきついが使えない事はない。
ひふみはベッドの縁に腰掛けて、脚を組んで武井を凝視している。
落ち着かない状況ではあるが、試しに一発入れてみた。パン、と軽い音がする。
「そんなパンチが通用すると思うなよ」
ひふみが眉を跳ね上げて、不快感を滲ませた冷たい声で言い放つ。
「脇を締めて。肘は真っ直ぐ伸ばして拳を突き出して」
武井の横に立ったひふみが手本を見せると、パァンと鋭い音がしてサンドバッグが大きく揺れた。
「こんなふうに。はい、もう一回」
何なんだ、この女は。
例え心の中でも、女の人相手にそんな口汚ない台詞を使いたくはなかった。
だがもう、浮かんでしまったものは取り消しようがない。
普段の運動不足とひふみの無駄に厳しい指導のおかげで、十分もしない内に武井の息は上がっていた。
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