ウメコ

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 ごうっと音がし、耳にふたがされる。真っ暗になる。窓にわたしがうつる。疲れた顔。  新幹線は嫌いだ。この瞬間が。  寸前まで窓から見えていた青い山々の残像が目の中にうつり、まぶしい。  わたしは膝にのせたウメコの入ったキャリーバッグを、ぎゅっと抱きかかえた。ウメコは動かない。当然のように。 「あら」  となりに座るおばさんが言葉を放った。キャリーバッグの窓の中をのぞきこむ。わたしは不審に思われないようにそっと、バッグの向きを変えた。 「それ、ワンちゃん?」  ああ、わたしに話しかけてきた。 「あたしも飼っているのよ。ちょっと暑いんじゃない? 毛布なんか敷いて。ぐったりしてる」  犬を飼っていると、よく話しかけられる。ウメコを散歩させているときもそうだった。ほっとできるウメコとの時間を邪魔されたくなかったけれど、わたしはいつでも話につきあった。でも、今は本当にめんどうだ。早く終わらせたい。  「大丈夫です。うちの犬ですから」  よくわかんない言葉を放り投げ、窓にうつる自分を見た。いつのまにかくちびるをかみしめていた。くせだ。ふっと、顔の力をぬく。 「なーに、なんの犬種?」  おばさんが、キャリーバッグをのぞきこんでくるのを気配で感じた。うざったい。無視しようか。でもそんな強烈な拒否を、やっぱり自分はできなくて、ついおばさんの方を向いてしまった。 「パグです」  ウメコはパグだ。しわくちゃな、わたしのウメコ。しわくちゃだからそう名付けた。うめぼしが大好きだった小学生の頃のわたしが。  ウメコはお父さんが友人から譲り受けた犬だ。その友人の息子さんがアレルギーになって飼えなくなったとか、そういう理由だった。お母さんは勝手に犬をもらってきたお父さんに怒りくるったけれど、わたしはその息子がアレルギーになって良かったと心底思ったのを覚えている。  そんなきっかけで、ウメコはわたしが小一のころから大学に合格したこの春まで、ずっといっしょに育った。夢の東京暮らしに、絶対連れて行くと決めていた。  トンネルを抜け、耳のふたが開く。おばさんの声が耳をつんざく。 「やっぱり! パグちゃんね。そうだと思った。あたしもねえ、前に飼ってたのよ。あんまり鳴かなくて、かしこいわよねえ」  ううん、うちのウメコはよく鳴く。わふん、ほふんって、変な声で。それでもわたしがかまわないと、短いしっぽをふりながら足下にまとわりつく。ふわふわ、ふわふわ。 「は? 東京の大学なんか行かせないわよ。いくらかかると思ってんの」  ふいに、お母さんの低い声が耳元でよみがえった。あれはいつだったか。ダイニングテーブルについたお母さんは雑誌を読みながら、後ろに立つわたしに言い放った。わたしは途方に暮れた。お母さんにそう言われるのは、わかっていたのに。  ああ。あのとき、ぼうっと突っ立ってた私の足下に、ウメコがすりよってきたのだった。よぼよぼと。あたたかく。 「ねえ」  おばさんの声が遠くで聞こえる。 「ねえ、あなた大学生?」  我に返る。 「あ、はい。この春から」 「そうなの、じゃあ夢いっぱいねえ! 東京へ? そう・・・・・・すてきねえ・・・・・・あ、富士山!」  おばさんが急に視線を窓に送る。思わず振り返ると、窓から富士山が見える。  わあ。初めて見る。  泳げそうに青い空、溶け出したかき氷のシロップみたいな雪。富士山だ。 『受験生が新幹線から富士山を見ると落ちる』  わたしの学校にはそんな迷信があった。だから、受験に向かう途中新幹線に乗ったときは、廊下側の席を取った。  東京の大学の受験には、お父さんが賛成してくれた。おばあちゃんの家から通うといいと。お母さんはなんとか説得するからと。  光が差した。そうすれば奨学金を借りながら、なんとか通えるだろうと思った。  両親は何度もそのことで喧嘩していた。わたしは部屋の外から怒鳴り合いの声が聞こえるたび、ウメコを抱いてふとんにもぐった。ウメコはわたしが顔を近づけるときに限って、くしゅんとくしゃみをしてわたしに鼻水を飛ばした。  家から出たかった。ずっと。 「あんたを連れて行くから」  暗闇でウメコの目をのぞくと、丸まったウメコは億劫そうにまぶたを開く。 「約束」  ウメコのざらついた肉球をつつき、指切りげんまんをしようとする。肉球を触られるのを嫌うウメコは、いそいで足をひっこめる。  ふふっと笑いがこぼれ、ウメコのみけんのしわをのばすように、指の腹でなでる。 ウメコといっしょに出るのだ。この家を。 そう思って目を閉じたあの夜を、つい昨日のことのように思い浮かべられた。  やっと叶うと思ってたのに。 「・・・・・・それでね、今うちにいるのはポメラニアンなんだけど」  おばさんはずっと話していたようだった。意識がいったりきたりして、集中できない。  「よく鳴くし、トイレを粗相することが多いのよ。でもね、そんなことがあってもかわいいわよねえ」  ウメコは年取って、トイレを粗相するようになった。その度にお母さんは激高した。 「ああ、もう! また洗濯しなきゃなんない!」  お母さんの声にウメコは驚き、右往左往する。 「お母さん、わたしがやるよ」  戸惑うウメコを抱き上げ、濡れたウメコ用毛布を拾う。  犬は本来寝床を汚さない習性がある。でも、ウメコは年を取り過ぎた。 「あんた絶対連れて行きなさいよ! 東京に行くんなら!」  そう怒鳴るお母さんに、ええ? イヤだなあ・・・・・・という顔を、わたしはしてみせる。わたしが嫌がれば、お母さんは気が済むことを知っている。ほんとはしてやったりだったけれど。どうしてもウメコを連れていきたかったから。  やっと叶うと思ってたのに。  合格して、東京に発つぎりぎりまで、ハンバーガー屋で短期のバイトに明け暮れた。少しでもお金を貯めておきたかった。  引っ越しの荷造りは大して時間がかからなかった。持っていくものはトランク一つと、ウメコのキャリーバッグだけだ。あとはだいたい捨てた。 「それにしても、パグちゃんおとなしいわね。寝てるの?」  おばさんはキャリーバッグの窓をのぞきこもうとする。  また意識がとんでいた。  キャリーバッグは冷たい。中からひんやりと、じんわりと膝に冷たさが伝わってくる。毛布の下にドライアイスを入れているから。 「いえ、死んでるんです」  思わず言った。 「死んでるんです。昨日、死んだの」  わたしの思いのほかきっぱりとした口調におどろいたのか、おばさんは口をぽかんと開けた。でももうどうでもよかった。  昨日は夕方までバイトを入れていた。バイトが終わると、スマホにお父さんから着信が何件も入っていた。メッセージには、「ウメコが死んでる。焦らずに気をつけて帰ってきなさい」とあった。足ががくがく震え、歯がガタガタと鳴るのを止められなかった。自転車を飛ばした。途中で段差にはまって派手に転んでしまった。  それなのに、ウメコはやっぱり死んでいた。   お父さんが、リビングのはじに横たわるウメコの横に突っ立ってわたしを出迎えた。ウメコにかけより抱き寄せると、ウメコはまだあたたかかった。おしっこで、からだがぬれていた。目がすこしだけ開いていた。おなかに顔をうずめると、ウメコのむんとするにおいがする。どうして生きていないのかわからなかった。  お母さんはいつものようにダイニングテーブルにつき、その様子を見ていた。 「もうばあさんだったんだから、しかたないのよ」  お母さんの口調は自分に言い聞かせるようだった。  二人は反対したけれど、わたしは東京にウメコを連れて行くことにした。それは約束なのだ。ウメコは指切りげんまんしてくれなかったけれど。わたしはウメコを、東京のお寺で供養してもらうことにした。  すぐにぬれた毛布を洗い、乾燥機にかけてふわふわにしてやった。ウメコのお気に入りの毛布を。ウメコの体もきれいにふいてやった。目を閉じさせようとしたけれど、もう閉じられなかった。でもその方が、いっしょに東京を見られるからいいと思った。  昨日の夜スーパーでドライアイスをもらい、今朝近所の花屋で三千円の花束を買った。  準備をしおわると、お父さんが車で駅まで送ってくれた。 「東京でがんばれよ。いつでも帰ってこい。連絡よこせよ。まったく……死んだ犬といっしょに行くやつがいるかよ」  改札前でお父さんはそういった。なんだかあきらめてるみたいに。 「ウメコ、さようなら。ありがとうな」  そして、キャリーバッグを見てしぼりだすように声を出した。 「……ごめんな」  最後は、わたしの目を見てお父さんはいった。その言葉を、受け取る前にわたしはまばたきした。 「うん、さようなら」  わたしはできるだけほほえんでそういうと、新幹線の改札を通った。  おばさんがとなりで何かいっている。私が泣いているからだ。たぶん。  うるさい。  わたしはキャリーバッグにつっぷした。おばさんは何もいわなくなった。  キャリーバッグは、相変わらずつめたい。相変わらず、ウメコは死んでいるのだとそれでわかった。  東京に着いたら、お寺を探そう。ウメコのために、きちんとお経を詠んでくれるお寺を。そうしてウメコが死んでいることをたしかめたら、お骨をもらおう。それをおばあちゃんちの庭へまこう。そうすればきっと、わたしが朝大学へ行く度、ウメコが足へまとわりつく感触を思い出すだろう。ツツツツツ、とウメコがフローリングの床を歩く音といっしょに。  キャリーバックを抱きしめる。  ねえ、ウメコ。聞いて。  生きてたって、こんなささやくような声、あんたにはもう聞こえなかったかもしれないね。 あんたがいたから、わたしはあそこを出ようと思えたの。 ねえ。ねえ、ウメコ。  わたしを愛してくれて、ありがとう。  わたしに愛させてくれて、ありがとう。     わたしはいつのまにか眠ってしまったようだった。車内のざわつきに、目が覚めた。夢は見なかった。隣のおばさんはいなくなっている。  やさしい音楽が車内に流れる。 『まもなく、終点、東京です』  アナウンスが、わたしを導くように鳴った。
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