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「……長、鬼塚部長……っ!」
「あ?」
しまった。つい考え事をしていたようだ。
「ひぃっ! す、すみません、何度かお呼びしたんですが……あの、新入社員の瀬名君が見えてますが……」
気が付くとすぐ隣に係長が立っていて、怯えたような目で自分を見ていた。
自分よりも10歳以上は年が上で、ただ年齢だけがいっていると言うだけで係長の座に付いている男――朝倉総一郎。彼は、仕事の効率が悪いだけではなく、仕事に対する情熱ややる気がほとんど感じられない。数年前に嫁が男を作って蒸発し、今は高校生の娘と二人で暮らしていると聞いている。
どうでもいいが、ひぃってなんだ。失敬な。そんなにびくびくし無くても別に取って食いやしねぇよ。
理人は内心毒づきながらも立ち上がり、鈍い腰の痛みに一瞬顔を顰めた。
「あの……大丈夫ですか?」
「問題ない」
平静を装って返事をし、係長のすぐ後ろにいる人物に視線を移した。スラリとした長身だが何処か全体的にもっさりとした野暮ったい印象を受ける。やや長めの前髪が覆いかぶさっていて目が見えないせいかもしれない。加えて大きな眼鏡を付けているから余計にそう見えるのだろう。
「……初めまして。ACの企画開発部、部長の鬼塚です」
「……驚いたな……こんな所で会えるなんて……」
「あ?」
差し出された手が握られることは無く、恍惚とした声に思わず眉を顰める。
「ぶ、部長っ……凄んじゃ駄目ですってばっ! ただでさえ顔が怖いんだから」
「ハハッ、大丈夫ですよ。慣れてるんで」
「……誰だ、てめぇ……」
こんなモッサリした男、知り合いには居なかったはずだ。今まで出会った男たちの顔は大体把握しているし、こんな不遜な態度を取るような輩忘れるはずが――……。
「やだなぁ、忘れちゃったんですか? 僕の事。――昨夜、あんなに激しく愛し合った仲じゃないですか……」
するりと唇を寄せて来て、理人にしか聞こえない声で男が耳元で低く囁く。
「……な……っ……!?」
何故コイツが昨夜の情事を知っているのか、昨夜の男とは風貌が全然違う。昨夜の男はもっと溢れんばかりの色気を纏う妖艶な男だったはずだ。だが何故、この男は知っているんだ?
理人にはそれが理解できず数秒の沈黙が訪れた。
「あ、あの……お知り合い、ですか?」
「っ、こんな奴は知らん!」
「全く……つれないなぁ。まぁいいや。今日からお世話になることになりました、瀬名です。よろしくお願いしますね鬼塚部長」
動揺して言葉を失った理人の手に男の冷たい手が重なる。
にっこりと意味深な笑みを浮かべて微笑む男を睨みつけながら、理人は身体中の血の気が引いていくのを感じていた。
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