四十路

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 忘れてはいけません、女としての何かを。  思春期という輝かしい桃色なお年頃はとっくに過ぎて、別人の誰かのようでもあるあの頃は鏡が好きでした。お風呂が好きでした。はだかが好きでした。つやつやと滑る白いそれに触れ、鏡の前で見つめるのが好きでした。綺麗でしたもの。細胞一つ一つが汚れを知らないようで、男の子に興味もございませんでしたわ。私が私でいられたらそれで満足であって、私を一番に愛せるのは私しかいないのよ、なんて、恥ずかしげもなく口に出していたほど。  一週間ほど前に四十路を迎え、記念にと仕事も有給を使い独り旅をしましたの。そこは山奥のど田舎にある大きな旅館でして、どくどくと五月蝿い心臓の音を聞きながら入って行きました。私の心臓は若い乙女のようで、混浴のある旅館と知りどきどきしております。 「いらっしゃいませ、ご予約をされていらした吉川様ですね」  おへその前で手を重ねてご丁寧にお辞儀をした受付嬢に堂々とお胸を張り、ええと云う。 「ご案内いたします」  若い受付嬢は表情を変えず重ねた手をほどいた。左手には奥様の証。四十路を迎えた私の左手は綺麗、あなたには私の仕合わせはわからないわ。私はすごくすごく仕合わせ。  部屋に独り。一人にしては広すぎたかしら、寂しささえ感じるような広いベッドに広いソファ。でもこれでいいのよ、私のために贅沢するんだから。私だけの感性で楽しむのよ、と服ぬぎをし浴衣に身を包む。服は床に雑に落ちたまま。荷物はそのままに、混浴風呂のある浴場へ向かった。  いざ浴場へ、踏み入れたものの誰もおりません。からだを洗い、湯に浸かる。混浴の場に女ひとり、悲しくはないのよ。  今年職場に入ってきた若い女の新人さん、細くて白くておしりのおおきい子。男の人ったら、餌待ちの飼われた動物みたいな目でやらしい。皆わかってないわ、若さなんて幼いばかりで色気がまるでないのよ。男の人ったら馬鹿みたい。  あなたにこの場にひとりで居る勇気があって?おしりのおおきい子。あの子や誰かが見ているわけでもないのに巻いたタオルを大胆におっぴろげた。肌だけになってお尻に触れてみる。この歳だからこその魅力もきっとあるわよね。 「あれ、吉川さん?」  突然の声に急いでタオルを巻き直す。聞き覚えのある声のほうへ顔を上げると。 「宮野...さん?」  同じ職場の宮野さん、二十八歳男性。なぜ、ここに、いつの間に。入口の戸が開く音もしなかったし浴槽に入るお湯の音もしなかったように思う。 「やはりそうでしたか、似ているなと先程から見ておりました」 「それでは、わたくしの肌を、それはお乳やおへそや叢のことを、見ていらしたのかしら?」  男の人ったら、その赤みはお気遣いかしら。心の色かしら。  四十路の三文字は誰が生んだのでしょう、私にとってはお下品に聞こえて仕方ありません。慰め言葉を綺麗事と言ってしまうように、ありがとうをごめんなさいと言ってしまうように、お下品に聞こえて仕方ありません。 「いえ、その...お綺麗です」  まあ、お下品なこと。まだ青いだけってことにしておくわ。 「あらお上手」  ああ、お下品なこと。 「お先に失礼いたしますね」  ざぶん、と大胆に立ち上がりお湯の音を照れ隠しに使った。背中に脚に、彼の視線を感じながらゆっくり歩いて出口まで。私は気づいた、出入り口のガラス越しに見えた裸体色、シルエットでわかる歩き方、あの子がそこに居ると。  がらがら、と戸を開ける。 「え...吉川さん...」  おしりのおおきな子。 「こんなとこで会うなんて、奇遇ですね」  私は一言も応えないまま、彼女の言葉に沈黙を返した。二十二歳女性、大咲さん。彼女のことはお嫌いではないけれど、そのやらしい臀部が妬ましくて憎らしいの。あなたは入社当初から歳上の男の人ばかりに優しくされ、ディナーに誘われ、その先夜は何をなさっているのやら。  私は一言も発さず巻いていたタオルを外し、はだかをお見せしたわ。四十路、あなたはこの老いてゆくことしか叶わないはだかにどれほど魅力を見出せるかしら。わからないでしょうね、まだ二十の代ですものね。おばさんのからだ、でしかないならまだ救いようがあるかもしれないわね、わたくし。でもわたくしにとってこの四十の肌は大人の魅力で、卑猥とも芸術とも化れる危険なものなのよ。 「ええ、奇遇ね」  彼女はずっと私の顔を見なかった。首からしたに火照るほどの視線。 「大咲さんもきっとこうなれるわよ、安心なさって」  更衣室に入り満足気にからだを拭く。今頃宮野さんと大咲さんは目を丸くして固まっているだろう。二十代男女が混浴風呂で二人きり、お若い者はお若い者どうしで濡れてくださいな。四十路女はティーバックショーツを履いて、恥ずかしがらずに、恥ずかしがらずに。わたくしは今日も美しいのよ、と大胆に堂々と恥ずかしがらずに。  あの人の前では放屁も恥じらい、怖いものなし。  あの人は遠くへ行ってしまわれたけれど、本当に偽りなくあの人を愛しておりました。わたくしはあの人の前なら何でも演じてみせましたわ。家政婦、男友達、道化師、娼婦、あなたの為ならと必死でしたけれど苦痛とは思いませんでしたわ。あの人の笑顔は今でも鮮明に思い出せます。家の掃除やお料理をしてあげたり、男友達と呑み騒ぎたいと言った夜にはわたくしも男の人みたいにお股を開いて座って呑んだ。あの人を笑わせるため、感じていただくため、女を使った夜もございました。けれど、わたくしも女。恥じらいはありましたのよ。あの人の前では放屁も恥じらい、涎を垂らした寝顔も見られぬよう泊まりもしてました。そうしてれば怖いものなし、と。  部屋に戻り、窓の外に広がる自然を眺めてお茶をいただきながら、あの頃に浸っておりました。  細くて白くておしりがおおきいの、私と同じなのよ大咲さん。今ではもっとおおきく立派になりまして、臀部が少し垂れ下がってしまいました。でも私はそれがだらしないなんて思っていないのよ、むしろあの頃とは違ったやらしい臀部であると思うわ。だから勘違いしないで大咲さん、みっともないおばさんの裸をお見せしたんじゃないわ。老いは美しさを変える、ということよ。
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