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2、志願者の男
「…………」
そんな娼館へ。
今宵、挙動不審を露わにしながら男が足を踏み入れようとしていた。
薄霧の先。高々と積まれた岩壁の間から湧き水が細い滝となり、流れ落ちた先の滝壺には、幾万の蛍が絹糸の如く滑らかなアーチを描く。
「ほ、本当にこんな場所に。なんというか……旅館だろうか?」
そんな岩壁に囲まれた重層の木造建築。
楼閣のような、城のようなその外観で威圧的に聳えていた。
突出した入口には更に複雑で繊細な彫刻を施した破風がどっしりと構えられ、格式の高さまで窺えるのだが。
何故かその破風下に、機械的で古ぼけた明かりのネオン看板が大きく掲げられているのだから、あまりにも意味が分からない。
鉄紺のラインで囲まれ、中には煤けた朱色で闇蛍館と右からの表記で控えめに光っており、何とも摩訶不思議である。
接続が甘いのか不規則的な点滅が鬱陶しくも感じながら。
「何だか変わっているなぁ……」
見上げた首を傾げながらもたじろいでいた。
その男、四十手前ほどだろうか。
容姿も身なりもそれほど良いものではなく、恵まれた長身を無駄にするような猫背とやせ細った身体。
長く畝った前髪から薄く覗く垂れた眉、常に寄る眉間の皺と、目には覇気がなく。無精髭すらそのままに、型落ちし拠れたスーツが一張羅であろうことを示していた。
それから抱きかかえた小ぶりなトランクケース。
見るからに自信のなさそうな声色、表情と佇まいである。
「よ、よし……っ」
漸く。ごくり、喉を鳴らし意を決して。両引き戸に手をかけ一歩、また一歩と慎重に足を進めると。
外はしっとりと汗ばむ身体を落ち着かてくれる程度だったというのに、館内は腕を擦るほどに冷えている。
そんな冷気と静まり返った暗がりが不気味だと感じながらも、厚みのある絨毯の敷かれたままに歩んでゆけば……。
「ようこそ闇蛍館へ」
途端、柔らかな明かりが辺りへ灯る。
そこは何とも和モダンなエントランスホールが広がっていた。
「ひっ、はい……あのっ!」
瑠璃の妹である玻璃がフロントカウンターから声を掛けたのだ。
緻密に編まれた簾が胸下まで垂れ下がり、顔を合わすことはないが歳若い少女の声。
男は一気に畏まってしまう。
「えっ、とですね……」
「紹介カードをお持ちのようで」
「そ、そうです!」
「拝見致します」
手に握ったカードを恐る恐る差し出せば、僅かな間が更に憂鬱にさせる。
こんな少女に自身の堕落した欲望を見透かされているかと思うと、心底情けない気持ちになってしまうのだ。
何故なら男は今日。
ここで出来る限りの豪遊をし、美女を飽くまで抱き、そうしたら全てを終わらせようと来たのだから。
つまり自害をしようと決めていた。
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