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夜の熱、朝の光
八月四日の夜、まなみ叔母さんが死んだ。自殺だったらしい。
前日にはピィちゃんの六歳のお誕生日を盛大にお祝いして、いかにも幸せそうな顔で写真に映っていたのに、どうして、とママが泣きながらこぼしていた。それを横目に、私は心の中で呟く。「そのひとが幸せかどうかなんてまわりの誰にもわかるもんじゃないよ」って。
叔母さんの訃報を聞いた瞬間「しまった」と思った。計画の実行を週末に控えた今、まさか身内に先を越されてしまうとは。
今週の土曜日――すなわち十七歳の誕生日を迎える夜。私は風呂場で華麗に手首を切ってこの世を去るはずだった。
有名人の自殺が報道されると自殺者が増えるなんてどっかのコメンテーターが言っていたけれど、べつにそこまで親しいわけでもない叔母さんの後とかなんか逆に追いづらい。というわけで、私の計画は実行延期を余儀なくされたわけなんだけど。
叔母さんは、一体どんな方法で死んだんだろう。訃報から一週間たった今も、私はずっとそのことについて考え続けている。
発見されたのが自宅の室内だというから、飛び降りや飛び込みの類は除外される。首を吊ったか、何かを吞んだか、はたまた私の計画のようにどこかを思い切り傷つけたか……。
「ゆーちゃん」
そう言って、風呂からあがってきたらしいピィちゃんがそっと私の手をひく。小さな手のひらはマシュマロみたいにふわふわで、熱くて、表面がしっとりと湿っていた。
「なに」
私はそう言いながら、さりげなくピィちゃんの手からするりとすり抜ける。ピィちゃんは一度指先で空をかいたようだったけれど、それ以上追いかけてくることはなかった。
叔母さんの遺体の第一発見者は、よりにもよってピィちゃんだったらしい。まさか「お母さんどんなだった?」なんて聞けるわけもないけれど――その時の叔母さんが見るも無惨な姿だったのか、それともただ眠っているだけのように穏やかだったのかはやっぱり気になる。
死の間際というのは、やはりとても苦しいものだろう。それでも叔母さんは、自らの選択が正しかったと思いながら、満足して死んでいったのだろうか。
「ことり、今日もここにとまるの?」
ピィちゃんのほんとうの名前はことりという。叔父さんと叔母さんが悩みに悩みぬいて考えた名前だと聞いていたのだけれど。
「――パパは、いつおむかえくる?」
「……」
ピィちゃんの問いに答えることができない。
詳しいことはわからないけれど、ピィちゃんのパパであるつとむ叔父さんと、まなみ叔母さんに近しい人たち(叔母さんの両親であるじいちゃんばあちゃんと、姉であるうちのママ)がもめているらしい。ピィちゃんの親権をどうするか、という話みたいだ。
ピィちゃんは叔母さんが亡くなってからずっとうちに泊まっているけれど、県内に住んでいるはずのつとむ叔父さんは一度も顔を見せない。その事実からなんとなく状況を察した私は、ピィちゃんを見つめる時どうしてもその視線に哀れみを纏わせてしまう。
「かわいそうに」と思っているのに手を握り返してあげることすらできない私は、偽善者にもなりきれないぐずな半端ものだ。ピィちゃんはいつまでも返事をしない私を責めるでもなく、再び手を握ることもせず、ただ自分のパジャマの裾をぎゅっと掴んで下を向いた。
泣くかな、と思ったけれど、ピィちゃんはぎゅっと唇を噛みしめながら涙をこらえていた。自分が五歳だった頃のことなんかもうほとんど覚えていないけれど、このくらいならもっとわんわん声をあげて、わがままを言いながら泣きわめいてもよさそうなものなのに。今のピィちゃんは、まるで表情筋がガラスにでもなってしまったみたいだ。ちょっとでも衝撃を加えたら、粉々に砕けて二度と戻らなそうな感じがある。
「ごめんなさい」
ピィちゃんはうつむいたままそう言った。
「……なんで?」
驚いた私は尋ね返す。
「だって、ゆーちゃんこまってたから」
「……」
確かに困っていたのは事実だ。その原因がピィちゃんであることも、まぁ事実であるといっていい。
「ことりのせい」
けど、だけどだからといって。この子がそんな風に言いながら、涙ぐまなきゃいけない理由なんてどこにもないんじゃあないだろうか。
「だから、ごめんね」
ピィちゃんはそう言って、両方の口角をむりやり吊り上げて見せた。私には聞こえる。ひび割れだらけの表情筋のそこかしこが、みしみし音をたてているのが。
「……、」
思わず口を開きかけた瞬間、遅れて風呂から出てきたらしいママが大きな声でピィちゃんを呼んだ。ピィちゃんはくるりと踵を返し、バスルームの方へとかけていく。一人できちんとパジャマに着替えることができたピィちゃんを、ママは大げさなくらいに褒めていた。ツキン、と喉の奥の方が痛んで、私もまた自室へと引き返す。そうだ、私には他人の哀しみにかまけている暇なんてないはずだ。
「えらいねぇ」
「すごいねぇ」
昔からそう言われることが多い子供だった。読み書きも周りの子より早く覚えたし、テストの点だって常によかった。
「おりこうさん」
その言葉は麻薬のように私の意識を痺れさせる。
もっと、もっと。もっと私を褒めて、認めて。あなたは有用で、必要な人間であるのだと言って。
「ゆうちゃんはえらいねぇ」
そうやってママのいるところで褒められるのが、なによりも一番好きだった。
声をかけられたママはいつだって、とびきり嬉しそうに笑いながら、私の頭を撫でてこう言うんだ。
「そうなの。この子本当にすごくて」
いつまでもそう言われていたかったから、私はいつも「えらい子」でありたかったんだよ。
ハッ、と吞んだ息が喉元に詰まったような感覚があったけれど、あいにくと窒息死はできなかった。仰向けになった背中とシーツの間が、汗でぐっしょり濡れている。詳しいことは覚えていないが、きっといやな夢をみていた。
のっそりと上体を起こしただけで全身が軋む。まるでカラカラのミイラにでもなったみたいだ。面倒だけど氷を入れて、とびきり冷たい水をがぶ飲みしたい気分だった。
私は素足にスリッパをひっかけて、なるべく足音をたてないように部屋を出る。時計の針は午前三時半を指していた。ママもパパもベッドの中だ。
廊下に出ると同時にむわっと立ち込めた夜の熱気が、身体のいたるところにまとわりついてくる。湿度が高く不快な夜だ。そういえば明日は雨の予報だった気がする。
キッチンに入ると、冷蔵庫のヴン、という唸り声がやたらと耳についた。私はまるで泥棒みたいにこそこそと冷凍室から氷をすくいあげると、なるべく音をたてないように自分のカップの底へと滑らせる。続けてそこにペットボトルのミネラルウォーターを注ぐと、そのまま一気に喉奥から胃の底まで流し込んだ。
身体の真ん中に走った一本の冷たい奔流が、私の意識をきりりと明瞭に覚醒させる。悪夢の余韻を洗い落とすことはできたけれど、あとに残ったこの現実もまた趣味の悪い悪夢のようなものだ。ついでにこれも終わらせらんないかな、と自嘲した私の頬を、どこからか吹き込んだ温い風がじっとりと撫でた。
就寝時、部屋の窓は全て締め切られているはずだ。リビングダイニングのエアコンも切ることになっている。この室温ならスイッチがオフになってからある程度時間がたっているはずだ。そして扇風機の類もこの部屋には置かれていない。
私はぐるっと辺りを見回し、目を細めながら風の出所を探した。そしてすぐに気づく。ダイニングにある、ベランダに続く窓が開いているのだ。厚めの遮光カーテンが、ぼわんぼわんと波打つように膨らんでいる。私は胸騒ぎと共に、ゆっくりと窓に歩み寄り、カーテンの向こうを覗いた。そう、その時既に私の胸には予感のようなものがあった。
「……っ!」
ベランダの手すりに手をかけ、必死でよじのぼろうとしていたのはピィちゃんだった。六歳児の、私の胸下ほどまでしかない身長ではたわむれにぶら下がるくらいのことしかできない。彼女はそれが歯がゆいのか、「ぶたのまるやき」をする時みたいに足までかけて、必死でそこに上ろうとしていた。
かける言葉を見つけられないまま、私は彼女のパジャマの裾をつかんだ。
「――なに、してるの?」
とりあえずの安全装置を施したのち、そう尋ねる。ピィちゃんは手すりから足をおろして、くるりとこちらを振り返った。少し眠そうだけれど、普段通りのピィちゃんの顔に見える。
「ママのところに、いけるかと思って」
ピィちゃんの言葉をさらうみたいに強い風が吹く。私はなんと言ったらいいのかわからずにただ黙りこくって、間抜けにピィちゃんの着ているプリキュアのパジャマを掴み続けた。
「死んじゃったら、お空のうえにいくんでしょ」
ピィちゃんはそう言って、ベランダの脇にスタンバイしていたらしいピンクの子供傘をかかげてみせる。
「きょうは風が強いから、いけると思って」
パッと開かれた傘が、風にあおられておおきく揺れる。そこで私は自分の勘違いに気が付いた。「ママのところに行く」って、あれか。そういう意味か。
「――ママ、きっとさびしくて泣いてるよ」。
ピィちゃんはそう言って、傘を持った右手を大きく大きく伸ばしてみせた。小さくてまるい二つの瞳の中で、強い意志をもった光がきらりとひらめく。
「前も、たまに泣いてたもん。泣いてないよって言ってたけど、泣いてたもん。しってるよ」
裸足の小さな足でベランダの床に爪先立って、ピィちゃんは少しでも多くの風を受けようとしている。
「だからなでなでしてあげるの。だいじょうぶだよって、しんぱいすることないよって」
ひときわ大きな風が吹いて、傘が激しく煽られた。細い骨はびりびりと震えてしなり、今にも折れてしまいそうだ。
「風さん、おねがい! ママのところにつれてって!」
ゴウッとさらに強い風が吹いた瞬間、ピィちゃんの爪先が一瞬ベランダから浮き上がった、ように見えて。
私は思わずピィちゃんのお腹にしがみついた。腕の中に抱えた身体が思っていたよりずっと熱くて、一瞬怯んだけど、それでもなんとか食らいついた。
さすがに五十何キロの重しがあればどんな風が吹こうとピィちゃんが飛んでいくことはない。私はほうっと息をついたのち、気まずさを噛み潰しながらゆっくりと身体を離す。ピィちゃんはまんまるい目でじっと私を見つめていた。ぼさぼさの頭を掻きながら、私はなんとか適当な言葉を捻りだす。
「――帰って、これないと思うよ」
ピィちゃんの目が、さっきよりもさらに丸くなった。
「ママのところに行ったら、もう帰ってこれないと思う」
そこまで言って視線を逸らす。これ以上この問答を続ける気がなかったからだ。
ピィちゃんは黙ったまま傘をとじて、それを床に寝かせると、ぽそっとこぼす。
「――やっぱ、そうかぁ」
そう言ったきり、ベランダの床にお尻をついて、体育座りのような格好になった。お尻が汚れるよ、と思ったけれど、それは言わずに黙って小さな背中を眺めた。
まるでこちらの事情を察したみたいにやんだ強い風のかわりに、頬を撫でるような生ぬるいそよ風ばかり吹く。運ばれてくるのはどこか遠くから聞こえる虫の声と、少しずつ強くなる雨の匂いくらいだ。普通の夜。本当に、いやになるくらいなんの変哲もない夏の夜だった。
耳の周りで嫌な羽音がして、その主を両掌で叩き潰す。
ピィちゃんは少しだけこちらを振り返ったけれど、再びなにごともなかったかのように前へ向き直った。
手に張り付いたままになっていた蚊の死骸を払い落とし、汚れた掌をジャージのズボンでごしごしと拭う。
どこか遠くから聞こえてきた救急車のサイレンはたしかに誰かの一大事を知らせているのに、私にとっては単なる生活音の一部でしかない。当たり前のように訪れ更けていくと思っていた平凡な夜でも、誰かにとっては永遠に明けない最期の夜になったりする。
少し迷った後で、反対の手をピィちゃんの頭に伸ばした。細い髪を遠慮がちに梳くように撫でて、呟く。
「……だいじょうぶ、だよ」
彼女が母親にかけたがっていた言葉を、うわべだけそのままなぞってみた。
「……うん」
ピィちゃんはそう言って、こくんと頷く。その拍子に彼女のまるい頬を汗の雫が一筋伝った。
「――寝るなら布団行こ」
こっくりこっくりと舟をこぎだしたピィちゃんに、私はそっと右手を差し出す。眠そうな目をしたピィちゃんは少し逡巡してから、その手をきゅっと握り返した。じっとりと汗ばんだてのひらはやっぱり甘いお菓子のようにやわくて、けれど私のものよりずっとずっと熱かった。
「……おやすみ、ゆーちゃん」
ピィちゃんはそう言って、ママの眠る寝室へと消えていく。残された私は、ただひとりぼんやりとリビングにに立ち尽くしていた。
膨らんだカーテンの向こう側から、温い風が部屋の中に流れ込んでくる。色濃い雨の匂いが鼻先をくすぐって間もなく、ぱたぱたと水滴がベランダを叩く音が聞こえてきた。
カーテンをめくると、思っていたより空は明るかった。薄雲の向こう側から滲んだような朝陽が差し込み、降りしきる雨粒がきらきらと光り輝いている。
東から広がっていく明るみによって空の片端に追いやられた夜は、赤ともオレンジともつかない色をした朝陽によってゆっくりとその姿を暴かれていった。
私は素足が濡れるのも構わずベランダに一歩足を踏み出すと、胸いっぱいに大きく息を吸い込む。
夜はこうして明けていくのだ。時として予期せずもたらされた誰かの熱や光でもって。
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