くらやみの釣り人

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奥日光の温泉ホテルに泊まっていた。 ケンジは、3日間の有休を取って、気持ちをリフレッシュさせるために、この湖畔の宿を選んだ。 選んだポイントは、畳の和室があるからだ。 温泉のあるホテルに泊まって、ああ、気持ちが良いなと思った時に、やっぱりベッドじゃあなくて、畳に敷かれた布団にゴロリとやるのが、温泉のある宿の醍醐味だろう。 わざわざ、有休を取って、やってきたのは、気持ちをリフレッシュさせたいという思いもあったが、本当のところは、職場の上司に対する抵抗でもあった。 日ごろ、上司に命令されて動いても、それを、別の部署に非難される。 いや、これは上司の命令なんだってと言っても、そんな言い訳も通じない。 板挟みの職場が嫌になっていた。 そんな職場と上司に対するささやかな抵抗。 「今頃、僕がいないと、やっぱり困るなあ。」なんて、みんな思っているだろう。 と、呟いてみたが、誰かが1人いなくても、困ったりしないのが、会社というものだ。 このまま、何十年も、この会社にいるのかと思うと、絶望さえ感じる。 いっそのこと、辞めてやろうか。 まあ、せっかくの温泉なんだから、今だけは、会社の事は考えないようにしなくちゃね。 ケンジは、露天風呂に浸かりながら、お湯を両手で掬って、勢いよく頭からザブンザブンと、3、4回掛けた。 「あはは。楽しいね。それにしても、ちょっとカルキの匂いが強すぎないか。」 でも、ケンジは、こころから温泉を楽しんでいた。 温泉は好きだけれど、源泉かけ流しなんてのには、まったく興味がなかった。 どうせ、温泉に入っても、出る時には、シャワーで身体を流して出るのが習慣のケンジにしてみれば、温泉の効能なんて、どうでもよいことだ。 だから、カルキが強くても、まったくもって、問題なし。 ただ、雰囲気を楽しむのが好きなだけなのだ。 そんな温泉を楽しんだケンジは、ホテル自慢のバイキングの夕食を食べて、部屋でひとり布団の上に寝ころんでいた。 「やることもないから、もう1本、ビールでも飲んでやるか。」 立ち上がった時に、窓の外を見ると、ホテルの横の湖に、夜釣りをする男が見えた。 目を凝らして見ると、男は、微動だにせず、ただ座っている。 こんな夜に、しかも湖で、何が釣れるのだろう。 「暇だから、見に行ってみよう。」 ケンジは、部屋を出た。 ホテルの下駄を履いて湖に向かう。 下駄の音が、足許では心地良く鳴っているが、5メートルほど先の暗い空間で消えていく。 夜の湖畔は、ホテルの窓からの明かりでケンジの周りだけは、明るかったが、湖を見ると、そこには得体のしれない暗い空間が、恐怖という存在感をもって広がっている。 ただ、単純な暗闇が怖かった。 もし、今、船を出して、あの暗闇に漕ぎ出したら、きっと、そこには別の次元の空間があるのだろうなと漠然と考えていた。 それは、タイムトンネルなのか、ブラックホールなのか、或いは、黄泉の国というものなのかもしれない。 「何が釣れますか。」 ケンジは、男に声を掛けた。 男は、急に声を掛けられたにもかかわらず、驚いた風もなく、「いえ、何も釣れません。」とだけ答える。 ケンジは、男の座っている湖のガードの手すりの、その横に腰かける。 8月とは思えない肌寒くもある風が、ふわりとケンジに吹いた。 「それは、残念ですね。いつもは、どんなものが釣れるんですか。」 「さあ、まだ連れたことが無いので。」 「まだ、釣れたことが無い。じゃ、最近、始められたんですね。今日あたり、釣れると良いですね。」 そう言うと、男は、少し笑ったような表情になって、「わたしが釣りをしてると思ってられるかもしれませんが、まあ、これはただ、竿を持って釣り糸を垂れてるだけなんですよ。釣りはしてません。というか、こんな大きな湖の中に、どれだけの魚がいるのでしょう。まあ、沢山いるのかもしれませんが、その魚が、この小さな釣り針に巡り合うっていう確率は、恐ろしく低いと思うんですよね。それに、夜でしょ。この釣り針が見えるのかどうか。わたしには、魚が釣れるとは思えないんですよ。」と、ゆっくりとした口調で言った。 タクミは、不思議な感覚で、男を見た。 おや、思ったより若いのかもしれないな、60才ぐらいか。 「ええっ。釣りをしていないんですか。じゃ、何をしておられるんですか。どう見たって釣りしてる人にしか見えないですよ。」 「ですよね。釣りしてる人に見えますよね。ただ、考え事をしているんです。でも、こんな夜に、湖の傍で、ただ座っている男がいたら、きっと怪しい人だと思われるんじゃないかと思ってね。なので、ポーズで釣り人のマネをしてるんです。」 「釣り人のマネ。」 「ええ、ほら、エサも付けていません。」 男は、釣竿を持った腕を高く上げて、釣り針をケンジに見せた。 「エサ付けとけば、魚の1匹でも釣れるかもしれませんよ。」 「魚が釣れても、それをどうやって、さばいたら良いものか。それに、これは実験でもあるんですよ。いやなに、たぶん、この湖には魚がいっぱいいるでしょ。その魚の中に、1匹ぐらい、人生に絶望したやつがいるんじゃないかなと思ってね。だから、敢えてエサを付けてないんですよ。このエサの無い釣り針を見て、『ああ、もうダメだ。自殺しよう。』ってね、そんなことを考える魚がいるのかどうなのか、それを確かめてるんです。」 「はあ。魚に、そんな事を考える脳みそがありますかね。」 「さあ、どうなんだろうね。失恋したり、イジメにあったりしてる魚もいるんじゃないのかな。」 「どうでしょう。でも、いないと思いますよ。だって、魚に、そんな感情があったら、もう魚を食べる時に、困るじゃないですか。」 「でしょうね。『せっかく、彼氏が見つかったのに、あたしを釣り上げて、もう、あなたなんか死んじゃえばいいのに。』なんて、恨みがましい目で見られたりしたら、可哀想になっちゃうね。」 「いや、そうでしょうけれど、その魚の女の子のセリフの時に、女の人の声を出すのは、気持ち悪いです。」 「あら、そう?」 男は、また女の子の声を出して、ケンジをウルウルした目で見つめた。 「だから、それは気持ち悪いです。」 「そうか、魚に感情や、脳みそはないか。それなら、魚は、絶望も知らないというのは間違いないかもしれないな。。」 「絶望はしないと思いますよ。」 「じゃ、この実験もお終いやな。絶望を知らなかったら、自殺もしないやろうし。エサの無い釣り針を見ても、自分で自殺するために、釣られようって魚はいないことになるね。大体、自殺の原因って、絶望じゃないかと思うんだよね。」 「はあ。自殺の原因が、絶望。」 「ほとんどの自殺は、絶望やろう。それしか考えられないんだよね。そうだ、あなた、自殺の原因で、絶望以外に、何か理由が考えられるか。知ってたら、教えてくれないか。」 「自殺の原因って言われても。」 「そう言わないで、何か考えてくれないか。」 「まあ、考えてはみますけど、それにしても、どうして自殺の原因にこだわるんですか。」 「実は、ここで妻がね、自殺をしたんです。この湖に入水自殺した。だから、ここで、妻が自殺した原因を考えているんです。」 ケンジは、今までの男の言ってることや、やっていることの意味を、この言葉で理解できたような気がした。 「それは、何とも、、、。それはいつだったんですか。」 「3年前になるな。どうして妻は死んだんだろう。いや、理由も知りたいけど、ここに来たら、カズちゃんに会えるような気がするんやな。そうだ、言い忘れたけど、わたしは、石田っていうんです。それで、妻は、カズちゃんや。本当は、和子っていうんやけど、カズちゃんて言っていいかな。」 「勿論ですよ。カズちゃんで構いませんよ。それにしても、可哀想なことですね。」 「ああ、カズちゃんが可哀想や。会いたいなあ、カズちゃんに。寂しいんだよ、ホント寂しいんだよ。」 ケンジは、急に、石田という男が、可哀想にも見えて来た。 実は、奥さん想いの夫だったんじゃないか。 「それにしても、どうして自殺したんだ。考えても解らないんだ。そうだ、1度、カズちゃんの作った味噌汁を、『味、薄いなあ。』って言ってしまったことがあったんだ。そしたら、カズちゃん、プイッってなって、横向いたんだ。プイッってなったんだよ君。ケンジ君だったかな。分るか、プイッってさ。考えたら、あれが理由かな。あれで傷ついてというのが原因かな。」 「それが原因ではないと思いますよ。」 「解ってるわ。解ってるけど、理由が見つからないんだよ。」 そう言われて、ケンジは、またシンミリとしてしまった。 「カズちゃんの姉がね、カズちゃんが、孤独やったんじゃないかって言うんだよ。そんなことがあるか。ねえ、わたしと一緒に住んで、それなりに、仲良く暮らしてたんだよ。それで、孤独だってことがあるのかね。」 「さあ、どうなんでしょう。ただ、人の心の中までは、見ることができませんから。僕にも、分かりません。」 「孤独って、私と暮らしてて、孤独を感じてたって。そんな悲しいことあるか。」 「もし、そうなら悲しいですね。そうだ、奥さんに、何か変わったことはなかったんですか。」 「変わったとこと言えば、数字に、妙に囚われていたというか、数字が頭から離れないと言ってた。1日中、電話番号の数字を見てたり。料理を作る時だって、砂糖の分量を量るのに、スプーンの杯数を何度も何度数えてたっけ。」 「なるほど。ひょっとしたら、それが原因かもしれないですよ。強迫神経症っていうんですか。一種の精神状態が不安定な状態。それが原因で、自殺されたのかも。」 「わたしも、そんなことがあるかもと思ったんだけれど、でも、主となる原因は、それでも、わたしにも何か嫌なところがあったんじゃないかと、それが頭を離れないんです。」 「そこまで、自分を責める必要はない気がしますよ。その数字に囚われすぎたのが原因ですよ。」 「そういえば、死ぬ1か月ぐらい前に、どうして、4の次が5なんだと、わたしに聞く訳なんですよ。それは、真剣だったですよ。それで、それは、そう言う風に決まってるからだよって答えたんです。そしたら、あなたは、あたしのことを全然解ってないって怒るんですね。」 「それは、やっぱり精神的に弱っていたんですよ。」 「ええ、そうかもですね。カズちゃんが言うには、4の次、詰まり、5の前に、たとえば、ポンという数があってもいいじゃいって言うんですよ。だから、数を数える時に、1、2、 3、4、ポン、5ってね。」 「あはは。それは面白い考えですね。」 「いや、その場にいないから面白いだけですよ。だから、わたしは、テーブルに、みかんを並べて、ほら、みかんが4つだから4、そして、みかんを5つ置いて、ほら、みかんが5つだから5なんだよって説明したんです。4と5の間に、みかんは置けないでしょってね。そしたら、カズちゃん、ちょっと考えて、4と5の間を少し空けて、みかんを4つ置いてから、半分に割ったみかんをポンと4つのみかんの上に置いたよ。そして、ほら、4と5の間にポンがあるじゃないってね。でも、さすがに、カズちゃんも、それは変だと思ったんだね。そのあと、カズちゃんと大笑いしたよ。楽しかったなあ、あの時は。」 「面白いですね。解ってるんですね、頭では、4の次は5だってこと。」 「ええ、頭では解ってるけど、こころというか感情では、納得がいかないって感じなのかな。」 「石田さん、それなら、もう石田さんは、自分自身を責めなくても良いですよ。原因は、そのあたりにあると思いますよ。」 「そうかな。でも、知りたいのは、孤独やったかどうか。そこなんだよ。」 「たぶんですけど、お話をお聞きする限り、孤独ではなかったのじゃないかと思います。」 「それにしても、どうして、入水だったんだろうか。あれって、想像を絶する苦痛だと思うんだよ。たとえば、飛び降り自殺とか、睡眠薬飲んで自殺するとか、そっちの方が、よっぽど苦しまなくて済むよね。入水で死のうと思ったら、水を肺に吸い込むか、ずっと息をしないか、どっちにしたって、苦しいし、その苦しみに耐えながら自分の命を殺さなきゃいけないじゃないか。考えられないんだよ。」 「そうですよね。苦しいでしょうね。」 「その苦しみを苦しみと感じられないぐらいに、カズちゃんは、孤独だった、というか、絶望を感じていた。そんなの、可哀想すぎるじゃないか。ああ、カズちゃんに会いたい。あって、その絶望を何とかしてあげたい。」 石田さんとケンジは、しばらく、湖を見ながら、黙って風に吹かれていた。 暗い湖の対岸に、薄っすらと浮かび上がる鳥居が見える。 遠いくらやみの中に、まるで赤と言う色だけが、光の無い世界に対抗できる色でもあるかのように、薄っすらとではあるが、その鳥居は、確かに存在しているのである。 その赤を見ていると、探していた何か、探していた人なのか、見失って探せなくなってしまったものが、ただ、探してくれるのを待っているかのように、赤であることを暗闇に主張している。 鳥居は、やっぱり、あの赤じゃなくてはならない。 根拠も無しに、ケンジは確信した。 ひょっとして、奥さんは、あの鳥居の暗闇に浮かび上がる赤に惹かれて湖に入ったのではないだろうか。 そんな、考えが、ケンジの脳裏に浮かび上がる。 この暗い湖を泳いで行って、あの鳥居にたどり着いたら、何か答えがあるのだろうか。 ふと、石田さんを見ると、彼もまた、対岸の赤い鳥居を見つめていた。 その日は、そのまま、ケンジと石田さんは、別れた。 ただ、ケンジは、石田さんの事が、気になって眠れない夜を過ごしたのではある。 そして、次の日の夕方、温泉に入って、部屋に戻ると、救急車のサイレンが、窓の外で聞こえる。 見ると、どうも、湖でおぼれた人がいるようである。 「石田さん?」 気が付いたら、ホテルの横の湖に走っていた。 「石田さん、石田さん。大丈夫ですか。どうされたんですか。」 「ケンジ君か。やっぱりダメだ。入水で自殺しようと思ったんだ。でも、ダメだった。」 「自殺って、また何故。」 「カズちゃんのことを考えたら、無性に寂しくなってね。ここで自殺したら、カズちゃんに会えるような気がして。でも、入水はダメだ。あれほど苦しいとは知らなかった。もう、水が入って、むせてむせて、咳が止まらないし、第一、苦しさに耐えられないよ。よく、あんな苦しいこと、カズちゃん、やったものだよ。でも、あの苦しさより大きな絶望があったってことなんだもん。悲しいよ。」 石田さんは、そのまま救急車で病院に運ばれた。 翌日、ケンジは、石田さんの病院を訪れていた。 東京へ帰る前に、1度会って、回復したことを確認してから帰りたかったからだ。 「おお、お見舞いに来てくれたんだね。」 「ええ、やっぱり気になりますからね。」 石田さんは、ベッドの上で、分厚い大学ノートを見ている最中だった。 「何が書いているんですか。」 「ああ、これか。実は、カズちゃんが自殺した原因を知りたくて、書き始めたんだけど。今は、もう、カズちゃんについて覚えてることを何でも書き出しているんだよ。カズちゃんと一緒だった時間の事をね。書くことで、それが事実、存在してたってことを証明したいっていうか、自分自身で確認したいのかもしれない。」 「それは、良いことかもしれないですね。えー、ちょっと見せてくださいよ。なになに、味噌汁は、濃い味にしてくれ、、、。あ、これ昨日言ってたやつですね。」 「いや、これは、結婚した当時の話だよ。昨日の味噌汁の話は、死ぬ前の話。味噌汁が薄いって話は、1年に1回ぐらい登場してるんだな。だから、1年に1回は、プイッってなるっていう訳や。プイッは、なかなかツライぞ。ケンジ君には、まだ解らないだろうな、プイッの辛さは。」 「はあ、しかし、そんな味噌汁薄いんですか。」 「ああ、薄いな。でも、今となったら、あの薄い味噌汁、もう1回飲んでみたいんだよ。」 「それで、こっちは、岡山の桃のアイスキャンデーを食べた時の顔が、とぼけた表情だったと。そんな、とぼけてたんですか。こんな小さなことも書いてあるんですね。」 「思いだしたことは、全部書くようにしてるんだ。どんな小さなことでも、ふたりの時間だったからね。ほら、もう9冊目だ。」 見ると、ベッドの横のテーブルに、濡れたノートが9冊置かれていた。 「あ、昨日、このノート持って入水しようとしたんですか。」 「あの世に行って、カズちゃんに見せようと思ってね。」 「でも、もう自殺なんて事、考えないでくださいよ。」 「ああ、入水自殺は、もう、懲り懲りだ。あんな、苦しいとはな。」 「あれ。これは、奥さんの数字の話ですね。奥さんが、石田さんが、1番好きって言ったって書かれてますね。それで、それで、石田さんも、奥さんの事を1番好きって答えたんですね。すると、奥さんが、1番が2つあったら、2になるじゃないと怒ったんですね。」 「そんなことがあったね。お互いに1番だって、今見ると、恥ずかしいね。でも、なんでそれが2に繋がるかね。でも、その時も、後で、大笑いしたよ。楽しかったなあ。」 そう言った石田さんの笑顔には、昨日より元気な石田さんを感じた。 ふと見ると、テーブルに1枚の写真が置かれている。 「これが奥さんですね。」 「可愛いだろう。」 ケンジは、その写真を見た瞬間、ドキリとした。 高校の時に付き合っていた彼女に似ていたのだ。 結局、付き合って半年で別れることになったのだけれど、その最後に、彼女を傷つけることになってしまったことを今でも後悔している。 写真には、その時の彼女が、ただ、頼りなげに立っているように見えた。 華奢な体つきに、目尻の下げた笑顔。 ケンジは、急に彼女に会いたくなった。 「ええ、可愛いですね。実は、付き合っていた彼女に、そっくりなんですよ。びっくりしました。」 「そうか。やっぱり不思議な縁で繋がってるのかもしれないな。」 ケンジが、写真を返すと、石田さんは、その写真のカズちゃんに、チュッとキスをした。 何故か、ケンジは、ムッとした気持ちになった。 「じゃ。僕は、東京へ帰ります。」 「変な縁だったけど、ケンジ君に会えて楽しかったよ。」 挨拶をして、病室を出る時にテーブルの上に合った診察券を見た。 「No.666」 おいおい、奥さんが生きていたら、きっと怒りだしただろうね。 部屋を出る時に、振り返ると、石田さんが、オッケーサインを出して見せた。 その親指と人差し指の作る輪っかと、中指、薬指、小指が、6が重なっているように見えた。 「どうも、僕まで、数字に憑りつかれちゃったようだね。」 可笑しくて、廊下で笑ってしまった。 それにしても、どこか心配な男だったけれど、実は、奥さん想いの人で、奥さんもまた、石田さんが1番と思える人だったことが、今では救いになっている。 帰りのエレベーターの階数のボタンの4と5の間を押して見る。 「ポン。」 そんなボタンある訳ないけど、指で押して、ポンと言ってしまっている。 ああ、奥さんにも会ってみたかったな。 そう思った時に、ケンジの頭に、あの湖畔の反対側にあった赤い鳥居を思い出した。 理由は解らないけれど、あの鳥居の下に奥さんがいるような気がしてならない。 いや、あの鳥居の下にいるのは、石田さんの奥さんなのか、高校時代の彼女なのか。 どっちにしてみたって、いる訳はないのだけれど、頭の中には、鳥居の下にいる女性が、漠然とイメージになって浮かんでいる。 一体、どっちの女性なのだ。 確かめたくて、仕方がない。 来週、また温泉ホテルに行ってみるか。 そう思いながら、東京に帰った。
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