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夏の夜の蝶
駅改札出て低い階段を降りた先の時計の下。それが僕と恋人の薫との待ち合わせ場所だった。周囲には今日行われている夏祭りに浮かれた様に沢山の人たちが集まっている。僕自身着なれない浴衣を着ているので似たようなものだろう。
改札の向こうのホームに電車が入ってくる。扉が開いて大量の人が吐き出される集団の中に視線を向ける。その中に見知った姿を見つけた。薫も同時に僕を見つけたようで小さく手を振って改札を抜けると小走りに駆け寄ってくる。
「お待たせ」
「……それほど待ってないよ」
薫は爽やかな青の生地にアジサイの花があしらわれた浴衣を着ていて、髪の毛も結い上げていた。その姿に思わず見とれてしまう。
「……どうかした?」
薫が不思議そうに見上げてくる。
「いや、浴衣似合ってるなと思って」
僕が素直に感想を言うとカオルは少し頬を赤らめて「ありがとう」と言った。
「冬弥も浴衣似合ってるよ」
「浴衣なんて初めて着たから似合ってるかは自信がないんだけど」
「似合ってるよ。私が保証する。惚れなおしたぐらい」
今度は僕の頬が赤くなった。
「とにかく、行こうよ。花火大会まであと一時間ぐらいだよ」
僕と薫は並び立って歩き出した。花火大会の会場は近くの河川敷だ。そこに行くための道端には多数の出店が並んでいて、僕と薫は食べ歩きをしながら会場へと向かう。
「屋台の食べ物ってどうしてこんなに美味しいんだろうね」
両手いっぱいに食べ物を抱えながら薫がにこにこしながら言う。
「それ食べきれるの?」
僕が笑いながら言うと、初めてその量に気が付いたかのように薫が絶望したような顔になる。
「食べきれるもん。いや、食べきれないです。食べきれなかったら食べてくれる?」
「いいけど」
「ありがと!」
パッと笑顔を浮かべて薫が言う。
「しかし、そうなると、どの食べ物をどの順番で食べるかが問題だね。たこやきは間違いなく食べたいし、しかし焼きそばも捨てがたい。りんごあめも……」
食べ物とにらめっこしながら、あーでもないこーでもないとカオルは悩み始めた。途中、昔ながらの射的を見つけたので懐かしくなってやってみる事にした。一番上の棚に建っていた小さな熊のぬいぐるみを薫がじーっと見つめていたので、その熊に向けて銃を構える。一発目右にズレる。二発目少し左に調整して撃つが今度は上方向に飛んで行った。三発目、四発目と外して最後の一発。祈るような気持ちで銃を構えて撃つ。
コルクの弾がまっすぐに飛んで行って熊の額に直撃した。熊が後ろに傾いて、ぽろりと床に落ちた。
「おー。兄ちゃんやるなー」
屋台の店員の男の人が小さくぱちぱちと拍手して熊のぬいぐるみを拾い上げて僕に渡してくれる。
「はい」
僕はそれを薫に渡すと、薫は驚いたように目を見開く。
「欲しかったんじゃないの?」
「うん! 良く分かったね! ありがと!」
「いちゃつくなら別の場所でやってくれ」
店員さんが僕たちを追い払う様に手を振ると「いちゃついてないです!」と薫が律儀に反論していた。
「そういえば、唯がちょっと面白い話をしてたんだ」
唯と言うのは薫の小学生の時からの友達でよく一緒に遊んでいる子だ。両親は海外に仕事で赴任しているらしく駅前のマンションに一人暮らししている。
「どんな話?」
「明晰夢って知ってる?」
「……夢の中でこれは夢だって気が付く夢だっけ?」
「そうそう。夢の中で夢だって気が付けると、それは自分の夢だからどんなことだって思うままなんだって」
「へー。確かにちょっと楽しそうではあるよね」
「明晰夢って努力すれば自由に見れるようになるらしいよ」
「そうなの?」
「なんか、色々言ってた。やり方は忘れちゃったけど」
「忘れたんかい」
「まぁ。楽しそうではあるけど、ちょっと怖いしね。明晰夢見る時って下手すると現実と明晰夢の区別が付かなくなるみたいな話もあるみたい」
「現実だと思ってたら実は明晰夢だったってこと?」
「そう。さっきまで現実だと思っていたのに突然、あ。これ明晰夢だって気がついたりするみたい」
確かに、現実と夢があいまいになるというのはちょっとぞっとしない話しだ。
「冬弥は明晰夢を見れたら何がしてみたい?」
「何でも自由にできるかー。いきなり言われてもちょっと思いつかないなー」
僕が視線を宙にさまよわせながら言うと、薫は悪戯っぽい目をしながら見上げてくる。
「本当に?」
「うん」
「私にエロい事しようとか思ってない?」
「思ってないよ!」
僕が思わず叫ぶと薫はケラケラと笑った。
出店が並ぶ道を抜けると河川敷が見えてくる。すでにあちこちにレジャーシートを引いて座っている人たちがいた。
僕たちも河川敷の隅に持ってきたレジャーシートを引いて座る。シートの上に買ってきた食べ物を広げて二人で食べ始めた。
しばらくたわいのない会話をしていると『間もなく納涼花火大会が始まります』と放送が流れた後、暗い夜空に大きな花火が上がった。
「たーまーやー」
花火を見ながら薫が言う。
「その掛け声をする人を初めてみたよ」
僕が苦笑しながら言うと、薫は頬を膨らませる。
「なんでだよー。いいじゃん。一緒に言おうよ。踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らな損。損。だよ」
薫が何度も言うので、最終的には僕が折れて二人で一緒に掛け声を上げる。
『たーまやー』
確かに一度言ってみると、これはこれで気分が良いものだった。ふたりで笑い合いながら花火を見続けた。
一時間ほどすると花火大会が終了し、河川敷に集まっていた人たちがぞろぞろと駅に向かって歩き始める。僕たちも人の流れに乗るように駅に向かって歩き出す。
「今日は楽しかったね」
「そうだね」
「また、来たいねー」
「そうだね。じゃあ、来年もまた二人で来ようか」
僕の言葉に薫がパッと顔を明るくして大きく頷いた。歩行者天国になっている道を横断しようとした時、目の前を歩いていた人のポケットからポロリと財布が落ちた。
「あ、落としましたよ」
薫がそれに気が付いて財布を拾った後、小走りで目の前に男の人に駆け寄る。財布を落とした男の人は振り返ると財布を受け取って深々と頭を下げた。両手を振って恐縮している薫を微笑ましく見つめていると男の人が頭を上げた後、突然薫がガクンと肩と膝が落ちたかと思うと地面にあおむけに倒れた。
「薫!」
慌てて駆け寄って薫を抱き起す。薫の顔は蒼白になっていて右の脇腹には大振りなナイフが深々と刺さっていた。服が鮮血に染まり、赤い染みは留まることなく広がり続けている。
「薫!」
僕はなすすべもなくたた叫ぶ事しかできない。薫はうっすらと目を開けると、弱弱しく手を顔に伸ばしてくる。僕はその手を取って頬に添える。
「……ごめんね」
かすれるほどの小さな声で薫が呟くと、力がぬけたようにがくりと腕が落ちた。
「薫! 薫! 嘘だ! 嘘だ!」
一体何が。どうして。何が起こっているんだ。周囲を見回す。先ほどの男の姿はすでに見えない。周囲の人たちは遠巻きに僕たちを見つめてざわついている。中にはスマホを構えて僕たちに向けてシャッターを切っている人たちが何人もいた。
僕はその視線から逃げるように薫を抱え上げると、その場から走って離れる。一体何が。そうだ。救急車。スマホを取り出して緊急通報をしようとする。慌てていたせいかスマホが手から落ちる。スマホを拾い上げようとして、視界の端にすでに生気の失った薫の顔がある。全身は冷たくなりはじめていて、明らかに死んでいる。それを否応なく感じさせられる。
何が。どうして。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。何が。
「そうか。これは夢か」
混乱した頭が最終的に導き出した結論だった。そうだ。こんなこと現実にあるはずがない。これは夢だ。そう、明晰夢ってやつだ。明晰夢ってどうやったら覚めるんだ? 唯が詳しいって言ってたっけ。そうだ。唯に聞けばいい。
僕は薫を抱えたまま駅前のマンションに向かう。人の視線にさらされるのが嫌だったので裏道を通る。マンションには人影がなく、唯の住む部屋の前まで誰にも会うことなく辿り着くことができた。インターホンを押す。「はい」とぶっきらぼうな返事が返ってくる。
「冬弥だ。薫も一緒に居るんだ。ちょっと開けてくれないか?」
一瞬の間があったものの「すぐに開ける。待ってて」と聞こえて、しばらくするとがちゃりと玄関の扉が開いた。
「どうしたの? 今日は二人でデートだっていってた……」
そこまで行って、薫の返り血で真っ赤になった僕とぐったりとしている薫を見つけて唯は黙り込んだ。
「ごめん。ちょっと聞きたいことがあってさ」
「それより、病院に行ったほうが良いよ」
「いや、それは良いんだ」
「良くないよ。その。薫が……」
「いいんだ。これはだって夢なんだから」
僕の言葉に唯が怪訝な顔をする。
「これ夢なんだろ? そして、僕が夢って分かっているってことは明晰夢ってやつだ」
僕の言葉に唯は何も言わない。
「薫から聞いたんだ。唯は明晰夢の事詳しいんだろ? 明晰夢から覚める方法を教えてくれないか?」
唯はまっすぐに僕の瞳を見つめる。
「明晰夢から覚める為のコツは。強く願うこと。目が覚めると強い意志をもつことだよ」
なるほど。簡単なことだったんだな。僕は目を瞑って強く願う。これは夢だ。僕は夢を見ているんだ。だから。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ。
「目覚めろ!」
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