代名詞

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代名詞

夏の夜、といえば思い浮かぶものはたくさんある。 花火、浴衣、海、かき氷、揺れる影、突然の雨…。 大人ならきっとこういった一夜の夏のワンシーンを ひとつ、或いは複数思い出すのでは無いだろうか。 暑い夏、眩しい夏、切ない夏、そんなそれぞれの 夏の思い出を胸にしまって生きているのだろう。 私が一つ夏の夜の代名詞を選ぶのならば間違いなく 「嘘」と答える。嘘でも良かった、ただ側にいて くれればそれだけで良かった、あの日だけは。 たくさんの嘘で塗り固められたあの夜のことを 私は今もまだ忘れられないでいる。 数年前、まだ20代前半の夏だった。 二年付き合っている彼とは初めての夏祭りで 花火、浴衣、海、かき氷、夏の全てをこの一日で 満喫できるんじゃないかって程の真夏の暑い夜。 焦げた煙の匂いと油やソースの匂いが入り交じる 人混みの中を歩きにくい下駄で必死に彼を追った。 私はいつも彼の背中を見ていた。 買ってもらったかき氷はすぐに溶けて喉の奥を 生ぬるく落ちていく。更に喉は乾くばかりで。 初めての二人の夏祭りは、どうやら二人にとっては あまり良い思い出にはなりそうになかった。 人混みが嫌いな彼とワガママな私。 理由はたったそれだけだった。 不機嫌になっていく彼、拗ねる私、離れる距離。 「帰ろ。」花火が終わる前に彼が呟いた。 私も同じ気持ちだった。 たったそれだけのことが、若かった私にとっては とても大きい絶望に感じた。 いや、本当はわかっていた。私と彼は合わない。 だからと言って決定的に別れを決める理由もない。 彼からの愛情を信じられなくなって、でも 関係だけは続いていて、心はそこには無くて。 「花火大会行きたい。」のワガママに渋々答えて くれたその優しさにずっとしがみつきたくて それでもやっぱりこのままじゃ駄目な未来は 見えていて、だからこれがケジメをつける チャンスだと思った。そうじゃないとまた 離れられなくなってしまう。 サヨナラをしてから私は駆け引きをした。 彼は私のこういうところが大嫌いだと知って。 思ったとおり彼は私に怒った。 「ごめん。じゃあもう別れよ?」「待ってよ。」 「引き止めんといて、本当はわかっとるやろ?」 「そんなことない。」またそうやって私を惑わす。 でも、こうなるとわかっていたから決めていた。 「もう冷めたから、本当に終わらそう。 ありがとう、今まで。バイバイ。」「ちょっ…、」 切断ボタンを押したあと少し待っている自分が 恥ずかしくなった。もう着信は一切鳴らなかった。
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