今はただ、背中を預けるだけでいい

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 最悪のタイミングでかかってきた電話。画面には「お父さん」。すぐ側には先輩がいる。  切るべきだ、と手を伸ばしたのに、いつの間にかわたしはスマホを耳にあてていた。 「もしもし」 「もしもしぃ」  聞こえてきたのは父の声ではなかった。忘れられるはずもない、あの女の声だった。 「わたし、あなたのお父さんと結婚するのよ」  勝ち誇ったように女は言った。 「結婚式のことを伝えようと思って電話したの」  女は当然のように、「来てくれるでしょ?」と、言った。  わたしの右手は無意識のうちにスマホを床に叩きつけようと振りかぶっていた。しかしその右腕は不自然に動きを止め、視線をやると先輩の手にがっちりと掴まれていた。先輩はふるふると首を横に振った。 「待ってるからねぇ」と、通話が切れたのが聞こえた。 「電話、聞こえました?」 「いや……」  口ごもった先輩をわたしは鼻で笑って、言った。 「うち、離婚するんです」  深刻すぎる申告に、僕はどうしていいかわからなかった。けど、ただただ狼狽(うろた)える姿を見せたくはなかった。それは、好きな子にそんな姿を見せたくないという、僕のしがないプライドだったり見栄だったり、とにかく色んな感情が混ぜこぜになっていた。 「そうなんだ」 「そうなんです」  しばらく、雨音だけが部屋に響いた。 「うち、父親が不倫して──あ、今電話してきたのがその不倫相手なんですけど。そうそう。その女の要望でわたしはここにいるわけなんですけど」  人が変わったようだった。目は虚ろなのに口端は上がっていて、まるで笑っているようだった。何もない床の一点を見つめ、彼女はただただ言葉を吐き出す。 「母はだいぶ我慢したと思います。(あの人)から何かしらわたしに連絡がある度に、電話をかけてきては、毎度まくし立てるように言ってました。『絶対に許さない』『結婚したのが間違いだった』って──」  饒舌(じょうぜつ)だったのが嘘みたいに止まった。でもそれはすぐ再開された。  まるで、反芻(はんすう)するみたいに、ゆっくりと。 「『あんたを産んだのが間違いだった』──って」  何もなかった床に、小さな小さな水溜まりができた。
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