今はただ、背中を預けるだけでいい

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 翌朝、母から連絡が入った。  ……傘が折れるんじゃないかってくらいの土砂降りの朝だった。    ──無機質に一言、「離婚するから」と。 「雨、酷いね」  その日の帰り道──土砂降りの中、声をかけてきたのは藤崎先輩だった。  無視するのは気が引けるので、「そうですね」と、返した。 「何か用ですか?」    横目で見ると、藤崎先輩はニコリと笑った。 「スポーツドリンクのお礼を言おうと思って」 「……っあれはお茶の代わりに返しただけであってお礼を言われることじゃ──」  藤崎先輩の笑い声がわたしの言葉を遮った。  傘と傘がぶつかって、大きな(しずく)が落ちてきた。 「でも、スポーツドリンクのおかげであの後、助かったよ。……暑かったからね」 「……っ──」  思わず言葉に詰まった。たしかに、そういう意図がなかったわけじゃない。けど、そのくらいでこんなこと言ってもらったことなかったから。  散々言葉に迷った後、結局「そうですか」と、なんとか絞り出し、歩速を上げる。  傘の骨組みが嫌な音を立てて離れた。 「え、え? あの、また何か嫌なことしちゃった?」  藤崎先輩の焦った声が遠のいて──…… 「うっわ!」 「え!?」と、思わず振り向くと、びしょ濡れになった藤崎先輩が苦笑していた。 「お風呂はそっちです。タオルはご自由に。着替えは……とりあえず全部洗濯機に入れといてください。洗濯して乾燥させます」 「あ……うん。ありがとう」  視線を合わせないように、わたしはテキパキと動き回った。  ──たまたま。たまたま、すぐそこがわたしの住むマンションだっただけ。  藤崎先輩は、わたしのせいで立ち止まって、車に水をかけられたのだ。  聞けば電車で帰るらしかった。……けれど、いくら藤崎先輩が「王子」で、水も滴るいい男だったとしても、そのまま乗車するのにはなかなか周りの目が厳しいだろう。あと迷惑。  罪悪感に駆られるがまま、わたしは藤崎先輩を家へ上げ、(なか)ば強引に風呂場に押し込んだ。  先輩もまさか、知り合ったばかりの後輩に下着を洗濯されるなんて思ってもみなかっただろう。  なるべく洗濯機の中を見ないように努めながら、乾燥機までセットしてボタンを押した。  2人分の服だ。すぐに乾くだろう。  部屋着に着替え、切れかけたヘアゴムを捨てて濡れた髪を拭く。タオルをかぶったままボーッとしていると、いくらもかからず乾燥が完了した音が聞こえた。 「あの、お風呂と服……ありがとう」  頭にタオルをかぶった先輩が廊下からひょっこりと顔を出した。 「いえ……」  横目で先輩を見る。  ──普通の人、だな。  アイロンもかけてない少しよれたシャツ姿は、みんなが口を揃えて呼ぶ「王子」とはかけ離れて見えた。 「今の僕は、どう見える?」  わたしの視線に気づいたらしい先輩は、少し困った顔をしていた。 「……普通の人、ですね」 「ふはっ! 正直だねえ!」  率直な感想を述べたのはまずかったんだろうか。最初の頃みたいに、まだ『幽霊ちゃん』になる前みたいに、みんなと同じように答えた方がよかったんだろうか。そんな考えがよぎる。  けれど、何がツボに入ったのか、先輩は声を上げて笑っている。 「あの……?」 「ああ……ごめんごめん。そう言う子、初めてだったからさ」 「『王子』様の方がよかったですか?」  先輩はピタリと笑うのをやめて、ため息をついた。そして、「いや──」と、なんとも言えない顔で(うつむ)いた。 「……もしかして、『王子』って呼ばれるの、嫌なんですか?」  先輩はバッと顔を上げて、「うん」と、頷いた。  ……やっぱり。と、思った。だって、わたしも 「あだ名って、迷惑ですよね」    まだ、『美幸』でいたいから──。
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