ある日とつぜん

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ある日とつぜん

 起きたとたん、右腕の裏側――脇の下近くに掻痒感を覚えた。蚊かダニにでも刺されたのだろう。咲文(さくふみ)は目を瞑りながら痒い場所をボリボリ掻いて、汗が浮いた額を手の甲で拭った。  昨日と同じくらい暑い。まだスマホのアラームが鳴っていないから七時より前のはずなのに。  昨晩飲んだ酒がまだ抜けていない。声を出したら頭に響くような頭痛がする。暫しベッドの上で体を丸めていると、窓の外から突如騒がしい声が聞こえてくる。   ――ギャアアアァ。  キィィンと鼓膜に刺さる叫び。一瞬耳がおかしくなった。脈拍と同じ速さでこめかみがズキズキと痛む。  ――助けてぇ。  悲鳴は更に大きくなった。  咲文は飛び起きて、開けっ放しにしてある窓に走り寄った。揺れるレースカーテンを捲って外を見る。  横断歩道の真ん中で女性が襲われていた。長い髪が地面でうねる。何者かが彼女に馬乗りになって、裂かれた肉から臓器らしきものを取り出し、口に運んでいる。  咲文は反射的にカーテンを閉めていた。 「なんだ、今の」  頭を抱えて目を瞑った。ホラーテイストの夢でも見ているんだろうか。ならば早く眠りから覚めたい。でも、激しく刻む鼓動は、ズキズキと突き上げてくる頭痛は、全身に浮かぶ汗と鳥肌は、この上なくリアルだった。  恐る恐る、もう一度カーテンを開ける。  ガードレールに衝突して白煙を上げている車、車道を駆けて行くスーツの男と、彼を全速力でおいかける男。追いかける側があきらかにおかしかった。胸に穴が空いていて服が血まみれだ。なのに元気に走っているのだ。  横断歩道の先にあるコンビニはガラスの外壁が破壊されていた。雑誌類が外に投げ出されている。どこからか断末魔の叫びがまた、聞こえてくる。  眼下には別世界と思える風景が広がっていた。  咲文は暫し思考停止状態に陥っていたが、急に我に返った。ぼうっとしている場合じゃない。現状を早く把握しなくては。  玄関にある、一番履き慣れているスニーカーを履いたあと、テレビをつける。が、黒い画面しか映らない。他のチャンネル。ニュースのスタジオが映ったものの、キャスターの姿がない。無人だ。うう、ああ、と淀んだ声が流れてくる。次々にチャンネルを変えて、まともな放送をしているのが一局だけあった。 「私自身、いま何が起こっているのか理解できていませんが――未曾有の大惨事が起こっていることは確かです」  画面右下に、7時12分と時刻が表示されている。朝の顔である11チャンネルの女性キャスターが、毅然とした態度で話したあと、VTRに切り替わった。  道端で倒れている人間を、集団で食らう化け物の姿が映る。真っ二つに割れた頭から、脳みそを引きずり出して食べている。もげた手に齧り付いている。通常なら放送禁止になりそうなグロテスクな画像だ。  咲文は慌ててキッチンに走り込んだ。流しに向かって、こみ上げてきた胃液を吐き出す。 「このスタジオはまだ大丈夫ですが、いつ襲撃を受けるかわかりません。皆さんは外に出ないで家に留まっていてください。しっかり戸締まりをしてください」  当たり前なことをいうキャスターに腹が立ってくる。警察や自衛隊、政府はちゃんと動いているのか。こんなことになっている原因は何なのか――もっと知りたいことがあるというのに。有意義な情報が得られると思ったが、全然駄目だ。  口をすすいだ後、咲文はローテーブルに置いてあったスマホを手に取った。電源が入っていない。そういえば、昨日の夕方からずっとオフにしていたと思い出す。ホームボタンを長押しして、スイッチを入れる。パスコードを入れると、開きっぱなしだったチャットアプリが画面に映った。 『大事な用事でもあったのか。出席しないなんて』  高校時代の友人からのメッセージ。そして、送り付けられたいくつもの画像。――諒(りょう)の結婚式、披露宴の写真。  すぐにアプリを閉じてブラウザを起動させる。が、いくら待ってもネットに繋がらない。設定画面を確認すると、未接続になっている。候補のwi-fiも一切出てこない。  通話はどうだろう。試しに母親にかけてみるが、話し中だ。他の番号にもかけてみようとスマホを繰っていると、テレビから新しい情報が流れてくる。  咲文はテレビに近寄って画面に注目した。 「このウイルスが体に入り込むと脳炎を起こして死に至り、すぐに蘇生するのですが、人を襲うようになるようです。発症した患者に噛まれたり爪で引っ掻かれると感染します」  キャスターの顔が消え、今度は都内T区のライブ画像に切り替わった。観光名所として有名な商店街を舞台に逃げ惑う人々と、彼らを追いかけて捕まえるゾンビのような化け物たち。地獄絵図だった。  また吐き気がこみ上げてきてテレビから目を逸らそうとしたときだった。画面の中で呆然と立ちすくんでいる青年の姿が映った。彼は感染者のようには見えなかった。服は綺麗だし、頭にも顔にも傷がない。にも関わらず、ゾンビから襲われることはなかった。彼を無視するようにゾンビたちが素通りして行き、違う標的を追いかけている。  ――なんでこの人は大丈夫なんだ?  不思議になって彼の姿に目を凝らすが、すぐにまたカメラがスタジオに戻ってしまう。 「各行政から放送が流れるはずですから、それに従って行動してください。新しい情報が入ってきましたらすぐにお伝えします」  キャスターがそういった後、違う場所のライブカメラが映る。  咲文はテレビから離れ、また窓に向かう。外を見る。  襲撃されたコンビニには変化があった。顔なじみの店員が、店から外に出てきたところだった。体がゆらゆら揺れている。目を凝らすと、彼の顔には無数の血管が浮き出ているのが見えた。右腕が消えている。  すっと脚から力が抜けて、咲文は床にしゃがみこんだ。歯がカチカチと鳴った。  ――このままここに居ても襲われるだけだ。  前の通りが襲撃されているのだ。今度はこのアパートが狙われるだろう。敵はコンビニの強化ガラスを簡単にぶち壊す力があるのだ。  ではどこへ行けば助かるのか。全く見当もつかない。11チャンネルのスタジオはまだ無事なのだから、その局があるS区は大丈夫かもしれない。だが、そこに行く気にならない。  咲文はスマホを繰ってLINEを開いた。友人から届いた写真一枚一枚に目を通す。そこにはカメラ目線で笑う新郎の諒と、隣で笑う新婦の姿がある。二人とも幸せそうだ。祝福しなければいけないと思うのに、咲文の胸は掻きむしられたように痛み、息を吸うのも苦しくなった。 「りょう」  久しぶりに、かつての恋人の名前を口にした。涙が勝手に浮かぶ。  諒とは半年前に別れたのだ。彼から急に、結婚するから別れてほしいと、一方的に告げられた。咲文にとっては青天の霹靂だった。二人は高校から付き合っていて、大学進学のタイミングで上京し、一緒に住み始めたのだ。同棲十年目でお祝いでもしようとしていた矢先の出来事だった。  ――親が早く結婚しろって煩くなって、お見合いの話もしつこく持ってきて断りきれなくなったんだ。一回会うだけでも良いからって言われて仕方なく会ったんだけど――相手が良い人で。  ごめん、申し訳ない、と何度も謝られた。最後には泣いていた。咲文は初めて、恋人の泣き顔を見た。  追いすがることも、泣き喚くことも、罵ることもしなかった。そんな気にならなかった。  別れ話をされた翌日には、引っ越し先を探していた。二週間後には、十年住んだ愛の巣を引き払った。A区にある、最寄り駅から徒歩五分のアパートだった。  床から立ち上がり、咲文はまた窓の外を眺めた。手前の車道にも、向こう側にある通りにもゾンビの姿はない。少し安心した。が、どこかから男の悲鳴が聞こえてきた。近い。外ではなく内側から響いてくるような――。  ――このアパートにも入ってきた?  不意に足音が聞こえてくる。音が近づいてくる。  ここは二階だ。ベランダから飛び降りるのは可能だが、それなりに高さはある。着地に失敗して怪我でもしたら逃げるのが困難になる。  部屋の中を見渡し、隠れられそうな場所を探す。すぐに閃いて、咲文はキッチンに走った。床下収納の蓋を開ける。人一人入れる程度のスペースがある。体育座りをして、蓋を掛ける。完璧には閉じずに隙間をつくる。内側からは開けられないからだ。  数秒後、部屋のドアをドンドンと叩かれた。心臓が飛び跳ねた。脈拍が速くなる。全身には汗が浮いた。  しつこくドアを叩かれる。次いでガツンガツンとドアを蹴られている音がする。体を縮こませて嵐がすぎるのを待つことしかできない。 「サク、いないの? 私だよ。隣に住んでるマナだよ。開けてよ」
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