最終章 宝石

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最終章 宝石

ざ、ざ、ざ、と荒っぽく砂を踏む音がした。いくつもの光の丸で僕は照らされる。 「一人で来ると思ったか?」 七瀬が僕を嘲笑った。背後に部下を連れている。光の正体は懐中電灯だった。 「尾露智町は陸の孤島だ。陸路にも海路にも俺の部下が大勢出向いて、お前の仲間を探してる。狭い町だ、すぐに見つかる。俺と取引をするつもりだったんだろうが、無駄に終わったな。そもそも、俺達みたいな大企業と、お前のような三流作家、世間がどっちを信じるかなんて考えなくても分かるだろ? 会社の引継ぎに必要な書類があるんだ。今すぐ仲間を呼び戻すなら、駒として手元に置いてやってもいい。どうする?」 「話をしませんか、七瀬さん」 「時間稼ぎか? お前は無駄を嫌わないらしいな」 「貴方は無駄が嫌いみたいですね」 「・・・いいだろう。付き合ってやる」 七瀬は前に進み出た。僕との距離は3m程だ。 「俺は無駄が嫌いだ」 白いコートのポケットに手を突っ込み、七瀬は首を横に振る。 「馬鹿で貧乏な親の元に産まれたせいで、俺は勉学も礼儀作法も、なにもなっちゃいなかった。人生のスタートは親から始まる。生まれたときから決まってしまっているんだよ。俺が唯一持っているものは、自分の顔と身体だけ。若い頃は何も分からず、薄汚い相手に商売をする日々を送った」 七瀬は空を見上げた。冬の海辺は寒い。僕は震える身体を押さえつけ必死に寒さを堪えた。 「俺は運が良い。なんたって顔が良いからな。俺の顔の良さが噂で広がって、七瀬会長の耳に届いた。会長は俺のことを気に入って、奴隷の中で一番俺を可愛がった。七瀬会長の金で、俺は勉学に励み、礼儀作法を身に着けた。会長は俺を養子にして経営の何たるかを俺に叩き込み、俺は七瀬製薬の社長にまで登り詰めた。結局、金、金なんだよ」 お互いの息が白く凍える。 「金持ちの元に産まれなきゃ、人生始まらねえんだ!」 七瀬は笑った。僕も笑った。 「成程。貴方の言うことは間違っちゃいない。馬鹿でも貧乏でも幸せ、なんて、確かに綺麗事だ」 「話せばわかるじゃないか」 「貴方は、いや、あんたは怯えている可愛い奴隷だ。あんな骸骨みたいな爺さんが怖くて怖くて仕方がないんだろ?」 「あ?」 七瀬は眉を吊り上げた。 「自分のやってきたことは無駄じゃないって思わないと、やってられないんだろう? 身体を売って汚い体液に塗れて生きてきた現実を直視するなんて、できないよな?」 七瀬は沈黙し、僕の全身をゆっくりと睨みつけた。 「僕だってそうだ。母から性的な虐待を受けて育った。『性的虐待』の一言で簡単に片づけられるような辛さじゃない。今でも、思い出しただけで吐きそうになるし、怒りではらわたが煮えかえるし、悲しくて涙が出そうだ」 「俺を恨んでいるのか?」 「初めは恨んださ。父親が居れば何かが変わったかもしれないと思っていた。でも、時が経つにつれ、父親の存在なんてどうでもよくなった。俺もあんたと同じく、金持ちの家に拾われたからな。違いがあるとすれば、可愛がられ方だ。僕は一人の人間として尊重され、実の息子として可愛がられた」 僕は七瀬を睨み返す。 「あんたはどうだ? 老いて醜くなって、爺さんに可愛がられなくなったのか?」 「黙れ!」 「誰が黙るか! 僕は家族も恋人もいて仕事もある! お前なんか居なくたって生きてきた! 生き抜いてきた! 僕の人生にお前は必要ないんだ! 消え失せろ! 僕の人生から、永遠に消え失せろ! 七瀬蓮!」 七瀬は大声で笑った。 「それで終わりか? 痛くも痒くもないぞ。俺はお前のことなんてなんとも思っちゃいないからな。ああ、でも、会長を殺してくれたことは感謝するよ。お前はその汚名を着せられて、ここで死んでいくんだ」 部下の何人かが前に出て、ボウガンを構える。その先端の鋭さと、椎名が刺されたときに上げていた声が耳に蘇って、思わず息を呑む。 「良いモンみーっけ」 岩陰から山田が現れる。僕も七瀬も山田の方を見た。山田は右手には一枚の書類、左手には数枚の写真を持っていた。 「こっちは噂の『奴隷契約書』ってヤツか? 『七瀬蓮』って名前が書いてあるぜ」 書類には『奴隷契約書』と大きな字で書かれていた。そして、 『飼い主 七瀬龍之介』 『奴隷  七瀬蓮』 とも。余裕を漂わせていた七瀬が慌てふためく。 「お前誰だ!? その写真を今すぐに返せッ!!」 写真にはあられもない姿の七瀬が映っていた。 「返してほしかったらこっちに来な」 「馬鹿が!! 殺してしまえ!!」 風が吹いた。山田は書類と写真をそれに乗せてばら撒き、僕の首根っこを掴むと海に投げ込んだ。突然のことに吃驚する余裕があったのは一瞬だけ。暗く冷たい海水の中で天地が分からなくなり、僕は慌てて身体をばたつかせる。なんとか右足が砂を掴み、僕は海の中から起き上がった。 「な、何だお前は!? こ、殺せ!! 殺せ!! 誰かこいつを殺せ!!」 七瀬と部下達は怯えていた。山田が僕の方へ振り返る。 「乱暴なことして悪かったな、兄ちゃん」 山田の身体には、ボウガンの矢が深々と突き刺さっていた。傷口からは血ではなく、透明な液体が溢れ出ている。 「冬の海は冷たいだろ」 僕の隣に来て、七瀬にも見えるように手を差し出す。引っ張り起こそうとしたのは僕ではない。海中から女の細腕が出て、山田の腕を掴んだ。山田がそれを引っ張り起こすと、青白い肌で、頭がボコボコにへこんでいる椎名が海水を突き破って出てきた。 「と、知美!? い、一体何が起こっているんだ!?」 紳士が淑女をエスコートするように、山田と椎名は陸にあがっていく。そして、僕の周りの海水がブクブクと沸騰した鍋の中のように泡立ち、水着姿の青白い男女が現れ始めた。身体にはボウガンの矢が突き刺さっている。僕は直感した。彼ら彼女らは、昼間、椎名の指示で射殺されたユリアンナ教の信者だ。 「お前さん達、あっちの姉ちゃんは助けてやりな」 山田がそう言うと、椎名は七瀬に、信者達は部下達に機敏な動きで襲い掛かった。 「や、やめっ、」 椎名は七瀬を押し倒すと、首を絞めた。七瀬は長い足をばたつかせる。椎名の腹がボコンボコンと奇妙な音を立てながら膨れて、やがてばしゅんっと破裂した。羊水か、海水かは分からないが、透明な液体が七瀬の全身に降り注ぐ。椎名の腹の中から、真っ黒な人型のモノ、『美樹ちゃん』が現れた。美樹ちゃんは長い爪で七瀬の顔をガリガリと引っ掻いた。 「やめろッ!! 顔はやめろッ!! あああああああッ!!」 部下達は襲われている者も居れば襲われていない者も居た。近くの部下を素通りして遠くの部下を襲っている信者が居る。 「自分達に矢を撃ったヤツだけ襲ってんだよ」 山田が僕の目の前に立ち、そう言って手を差し伸べた。 「立ちな」 僕は山田の手を取る。彼の手は吃驚するくらい冷たかった。 「貴方は、一体・・・?」 ざぶざぶと海水を掻き分け、陸にあがる。それと入れ違いに、椎名は七瀬を、信者は部下を海の中に引き摺り込み、どんどんと深い場所に、沖の方に歩いていった。七瀬と部下達は藻掻いて抵抗するが、やがて海水に飲まれて消えた。生き残った部下達は怯えきっている。 「おーい! もう出てきていいぞー!」 山田の呼びかけで、隠れていた透と芙美さん、阿藤が出てきた。全員、顔が真っ青になっている。 「か、庇うためとはいえ、冬の海に投げ込むなんて、なにをするねん・・・ていうかなんや、今のは・・・」 透が上着を脱ぎ、僕に羽織らせた。山田は身体に刺さった矢を軽々と抜き、地面に捨てる。人間の力では、人間の肉体ではない。いや、そもそも、人間ではないのではなかろうか。 「芙美、俺も帰るわ」 山田は海に向かって歩き出し、波を蹴ってざぶざぶと進んでいった。 「聖さん!!」 芙美さんが叫ぶ。 「成仏してくださいよー!!」 山田は振り返り、笑った。そしてそのまま波の狭間に飲まれて消えた。 「こ、こころ様!」 部下の一人が、恐る恐る阿藤に近付いて来る。 「・・・阿藤。事態の収拾にあたって、今後一切俺達に関わらないと約束するんやったら、書類を返したってもええで」 芙美さんは持っている書類と写真の束を抱きしめた。僕はこのために時間を稼いでいたのだ。僕以外の者は岩陰に隠れ、透と芙美さんの携帯のライトで照らし合いながら書類と写真の内容を確認していた。幸運にも七瀬蓮に関する物と、会社の経営のために必要な書類を見つけられたようだ。 「・・・命令です。全員、帰還するように伝えてください」 「しかし、こころ様! こいつらは会長と社長を・・・」 「会長は服上死です。こんな恥ずかしいこと、世間に公開できません。持病の発作が起こって病死したことにしましょう。社長は娘の椎名知美と金銭的な問題で揉めて、知美を殺してしまい、夜の海に投げ捨てて証拠隠滅しようとしたところを、足を滑らせて自分も海へ。つまり事故死です。他に、二人の死を上手く説明できますか?」 異議を唱える者は居なかった。 「芙美さん、阿藤に書類を渡したってくれ。写真は俺に」 阿藤は書類を受け取ると、深く頭を下げた。 「帰るで」 僕達は裕美子の待つ車へ歩き出す。背後から攻撃されないか不安で何度か振り返ったが、阿藤は頭を下げ続け、部下達もそれに倣っていた。僕達は無事に車に辿り着いた。 「おかえり! ・・・ってずぶ濡れじゃない!」 「ただいま」 裕美子が僕達を出迎えた。天野は後部座席を広々と使って眠っていたので、透が叩き起こした。 「んひゃい!? もっ申し訳ありません!!」 「なんちゅう声出すねん。ちょい邪魔やから詰めてくれ」 「は、はい。申し訳ございません」 運転席に座った芙美さんは、車のエンジンをかけた。 「裕美子さん、助手席に座ってください」 「え? 山田さんと阿藤さんは?」 「後でお話します。兎に角この場を離れないと」 「分かりました」 裕美子が助手席に座る。後部座席に僕と透と天野が座った。 「皆さんの荷物と車を取りにホテルに戻りますね」 「あのさー、天野君の縄、外してあげたらどうかな?」 裕美子が手首をくいと動かすと、裾を通って手の平に折り畳みナイフが飛び出した。 「私も外してあげても良いと思います」 「・・・僕も」 透は鼻から溜息を吐くと、裕美子からナイフを受け取り、天野の縄を切って彼を解放した。 「・・・で、何があったの?」 僕は海で起こった出来事を、詳細に裕美子に伝えた。 「・・・何の理由もなくそんな嘘を吐くわけないし、本当なんだね。信じるよ」 「ありがとう」 「で、芙美さん。山田さんは、一年前に死んだ、貴方の恋人の宍戸聖なの?」 芙美さんは頷いた。 「聖さんはこう語っていました・・・」 『黄泉還り』と『蘇り』。『海のモノ』。七瀬龍之介の殺人について芙美さんは話してくれた。 「じゃあ、何年後になるかは分からないけれど、また蘇っちゃう人が出てくる可能性もあるわけ?」 「そうなりますね」 「あちゃー・・・」 裕美子は額に手を当てた。 「芙美さん、今回の事件、本にしてもいいですか?」 僕がそう言うと、透が僕の背をぺしんと叩いた。 「優君! 職業病出すのはやめなさい!」 「・・・職業病、ね。若しかして優さんの作品って、実体験のものもあったりするんですか?」 透と裕美子が『ああー・・・』と声を揃えた。 「はい。どの作品が、とは言えませんが」 「ふうーん」 芙美さんは少し考え込んだ。 「自分が本に出るなんて、ちょっと面白いかも」 「ええ・・・、良いんですか、芙美さん」 透が芙美さんに問う。 「名前や年齢をそのまま使ったりしませんよね?」 「はい。しません」 「・・・条件を出してもいいですか?」 「はい」 「聖さんの年齢は私と同世代にしてください。『ロリコン』扱いされるのは可哀想ですから」 「分かりました」 「アハハ、私もどうかしてるな。今日の日のことを何かの形で残しておかないと、時間が経つにつれて夢だったんじゃないかと疑いそうで、怖くて。聖さんは私だけの秘密、私だけのモノだったのにな」 明るい声とは裏腹に、芙美さんは切ない言葉を並べる。 「ホテルで聖さんの話をしたこと、後悔してるんです。一人で悩んで、出口のない迷宮の中で歩いてる気分だったから、誰かに聞いてもらえればすっきりする、なんて馬鹿なこと考えちゃいました。さて、ホテルに着きましたよ」 芙美さんはホテルの駐車場に車を停めた。 「私、もうチェックアウトしちゃったのでこのまま帰りますけど、彼はどうしましょう?」 全員の視線が天野に集まる。 「天野君、行くところある?」 「ありません・・・」 「警察に、」 と裕美子が続きを言おうとしたところで、 「お許しくださいッ!!」 天野が大きい声を出した。 「み、みっともなく叫んでしまって申し訳ありません・・・。ぼ、僕、一回だけ、七瀬様のお屋敷から抜け出したことがあったんです。警察に駆け込んだけど、警察は僕を七瀬様の家に連れ戻して、僕は、酷い目に・・・。い、嫌です! 警察は嫌です!」 「ちょ、ちょっと落ち着きなよ天野君」 「ほんまに帰るところないん? ていうか君はなんで奴隷に?」 「か、帰るところはありません。僕、家族が居ないんです。父は僕が幼い頃に病死して、母もくも膜下出血で・・・。僕はなんとか大学を出て、七瀬製薬に就職したんですけど、そこで七瀬様に目をつけられてしまって、奴隷に・・・」 「ということは捜索届とか出されてないんか?」 「多分・・・」 裕美子が助手席から身を乗り出した。 「透ちゃん、阿藤を脅せる材料持ってるんでしょ?」 「ん、まあ・・・」 「天野君に関するアレコレ、全部私の家に送るように脅迫してよ」 「はあ!? 裕美子ちゃん、こいつ匿うの?」 「うん、可哀想だからさあ」 「裕美子様ぁ・・・! ありがとうございますぅ・・・!」 「『裕美子さん』でいいよ。奴隷根性が染みついてるねえ」 「じゃあ、芙美さん。俺達もチェックアウトしてきますわ」 「優さん、お話したいことがあるんですけど、いいですか?」 芙美さんはにこりと笑った。 「はい。いいですよ」 「・・・じゃあ、優君の分もチェックアウトして荷物持ってくるから、待っててな」 「行ってきまーす」 透と裕美子は車を降り、ホテルの中へ入って行った。 「芙美さん、お話とは?」 「あのー、連絡先交換しませんか? 小説が出版されたら連絡してほしいんですけど、駄目ですかね?」 「いえいえ! 自費出版してでも芙美さんにお届けします。献本させて頂きますよ」 「わ、嬉しい」 「約束します」 「ありがとうございます。・・・そういえば、今、何時なんだろ?」 芙美さんは携帯で時間を見た。 「十時三十五分、か。フェリーはキャンセルするとして、車はどの道を行けばいいんだろう・・・」 「裕美子は陸路で来てますよ」 「本当ですか? じゃあ裕美子さんに着いて行けば取り敢えず外には出られますね」 「芙美さん、ご自宅はどの辺りですか?」 「ええと、」 芙美さんは裕美子が済んでいる町の名前を告げた。 「裕美子も同じ町に住んでますよ!」 「やったあ! 無事に帰れそう!」 「・・・お、戻ってきましたよ」 裕美子と透はそれぞれ自分の車に荷物を乗せる。芙美さんが車の窓を開けた。裕美子が運転席を覗き込む。 「芙美さん。私達、車で帰ります」 「あのー、私も着いて行っていいですか? 陸からの帰り方はわからなくて」 「裕美子、芙美さんは裕美子と同じ町に住んでるんだ」 「あ、そうなの! いいよいいよ着いて来て! さあ、天野君、私の車に乗ってね。透ちゃんの服を借りたから車の中で着替えてよ」 裕美子は返事を待たずに自分の車に乗り込んだ。 「芙美様、優様、ありがとうございました」 天野は深くお辞儀をしてから、車を降りた。 「優君も車の中で着替えや」 「はい。芙美さん、ありがとうございました」 「こちらこそ、ありがとうございました」 僕は芙美さんの車を降りる。途端に山の冷たい風が僕の身体を凍えさせた。慌てて車に乗り込み、下着ごと着替える。裕美子がゆっくりと車を走らせ先頭に立ち、その次に芙美さん、最後尾に僕達の車で列を成して走り始める。 「優君、寝ててもええよ。寒さで体力消耗したやろ」 「じゃ、遠慮なく」 僕は座席を倒し、横になる。 「優君」 「なんですか?」 「・・・後悔してる?」 僕は笑ってしまった。 「清々しい気分ですよ」 「俺は夜中一人でトイレに行けんなったかも」 「僕が着いて行ってあげますよ」 「お風呂も一緒に入ってくれる?」 「馬鹿」 「ヘヘヘ・・・。おやすみ」 「フフ、おやすみなさい」 透がラジオをつける。それを子守歌に、僕の意識は雪のように溶けていった。 半年後、六月。 そういえば、僕の人生の転機は三の倍数の月に訪れる。 六月、九月、十二月。 三月にも何か起こるのだろうか? ぷるるるるる、と電話が鳴った。芙美さんからだ。 「はい。優です」 『優さーん、こんにちはー。今、お時間大丈夫ですか?』 「大丈夫ですよ」 芙美さんと連絡先を交換してから、僕は積極的に彼女と連絡を取った。小説を書くための綿密な取材から始まり、巷で流行しているものの話や、何気ない日常の話、仕事の愚痴の言い合いなど、なにかと彼女と話が合った。今は一人の友人として接している。 『本、届きましたよ! さっき読み終えたんです!』 「読んでいただいて、ありがとうございます」 『感想を言ってもいいですか?』 「お手柔らかに・・・」 『フフフ、とっても良かったですよ!』 それから芙美さんは、小説のどこが良かったかを細かく話し始めた。 「うわわわ、そんなに褒められるとすごく照れる・・・」 『裕美子さんや透さんには見せてないんですか?』 「実は裕美子は活字が苦手なんですよ。透さんは結構素直に意見をくれるんですけど、最近、仕事が忙しくて読む暇がないんです」 『そういえば、裕美子さんの家に居候していた天野君はどうなりました?』 「ああ、裕美子の家で家政婦として働き始めたそうですよ。なんか天野君が裕美子に相当懐いてるみたいで、飼い主と飼い犬みたいな生活を送ってたそうなんですけど、これじゃいかん、と思って家事を教え込んだら物覚えが良くて、すぐに裕美子より家事がうまくなったとかなんとか」 『へえー。優さんの周り、奇妙な人間関係ばっかりですね・・・』 「あー、そうかも・・・」 『優さん、大学行く準備してるんですよね?』 「はい。仕事の関係でまだ本決まりじゃないんですけどね」 『大学でも奇妙な友人に恵まれるといいですね』 「勘弁してくださいよ」 僕と芙美さんはくすくすと笑い合った。 『さて、優さんの代表作『母性』から始まり、『哀歌』と続き、『海星』に繋がったわけですか』 「『優の受難シリーズ』とでも銘打ちましょうかね」 『次回作楽しみにしてます! って言うのは酷ですね』 「うへえ、冗談じゃない」 『フフフ。ああ、そうそう。『アレ』、どうなりました?』 僕はギクッとした。 「・・・まだです」 『早くしないと気付かれちゃいますよ?』 「でも、酷い目に遭ったんですよ? 絶対、嫌な思いをしてますって。不機嫌になるならまだマシ、最悪、怒られるかも・・・」 『それとこれとは別ですって!』 「そ、そうかなあ・・・」 『クリスマスの半年前から準備していたことなんでしょ? それを話せばわかってくれますって!』 「でも、もう時期を外れちゃったし・・・」 『じれったいなー! 透さん、今、家に居るんですか?』 「居ます・・・」 『じゃ、この電話を切ったらすぐに実行してください』 「ええ!? 今から!?」 『優さん、一年ですよ、一年。いつになったら渡すんですか』 「うぅ・・・。わ、分かりましたよ! やってやります!」 『偉いっ! では電話を切ります! さんにいいちゴー!』 ぷつり、と電話は切られた。仕方なく、僕は書斎机の一番奥にしまってある二つの箱を取り出し、リビングで映画を見ている透の元に向かう。 「透さん」 「んー?」 「映画の途中にすみません。大事な話があるんです・・・」 透はリモコンを操作し、再生していた映画を停止した。 「どした?」 僕は透の隣に座り、右手の手の平を透の前に出す。 「左手」 「えっ」 「いいから左手!」 透はそっと左手を乗せた。僕は小さな箱から指輪を取り出す。 「ちょっ! ちょっと待って! なんや急に?」 「じっとしてて!」 らしくない大声を出し、恥ずかしさで顔が真っ赤になる。僕は透の左手の薬指に恭しく指輪を嵌めた。 「本当は、一年前から準備していたんです。去年のクリスマスに渡す予定だったんですけど、機会を逃しちゃって・・・」 「・・・エメラルドの指輪?」 「前に言ったでしょ。エメラルドは僕みたいだって。傷を内包して光る宝石で、僕の瞳みたいだって」 「い、言うたわ。恥ずかしいな・・・。しかし、よく指輪のサイズ分かったな・・・」 「だって、いつも触ってるから」 「やば、愛されてる・・・」 「・・・で、こっちは僕の」 透の手を放し、二つ目の箱を開ける。 「『ピジョン・ブラッド』のルビーです。石言葉は、情熱、熱情、純愛、勇気、自由。透さんにぴったりです。でも、尾露智町であんなことがあったから、ルビーに良い思いを抱いてないんじゃないかと思って、言い出す機会が掴めなかったんです」 「ばっ、馬鹿馬鹿お馬鹿! それとこれとは別やろ!」 透は破顔一笑。僕は自分の指輪を嵌めようとした。 「待って待って! 俺がやりたい!」 「じゃあ、どうぞ」 指輪を渡すと、透は真剣な眼差しになった。そして僕の左手をガラス細工を扱うように触り、そっと、指輪を嵌めた。 「普段、カメラという精密機器を触ってる指がこんなことしてると考えると、ゾクゾクしますね」 「誘ってんの?」 「いいですよ」 「賢いんか馬鹿なんか分らんな」 透は僕を抱きしめた。 僕は考える。父親との違いを。 答えは、理解者を得られたかどうかだ。 それは偶然が幾重にも重なった奇跡。 透のことが愛おしい。 抱きしめることで感じる鼓動。 この心臓が永遠に動き続けますように。 僕はそっと、透を抱きしめ返した。 無知は利用される。美貌は貪られ、理性は崩壊する。 無力は利用される。それは屈辱で、悔恨だ。 綺麗事ではままならぬことも、この世の中にはあるのだ。 死ぬより辛いことなんて、いくらでもある。 だから、愛などという体液臭い信仰は捨ててしまえ。 癒しと安らぎを感じるためには、恐怖と苦痛が必要なのだ。                    左白憂『海星』より                          (了)
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