絵を渡る魔物

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絵を渡る魔物

「そういえば、名前を聞いていなかった」  陽が傾き始めた頃、シラルクは伸びをしながら立ち上がって言った。ジオラスが被せていた埃っぽい外套を手にして微笑み、「ありがと」と返してくる。  気温が下がり、石柱の間を渡る風は、肌の熱を奪う涼しさだった。行き交う人々の足どりは、昼と打って変わって急ぎがちになっている。 「ジオラスだ」  外套を受け取り、ジオラスは簡潔に答えた。シラルクは先に立って石段を下りながら「何か食べよう」と長閑(のどか)な口調で誘いかけてくる。おとなしく後について歩きながら、ジオラスはその背に声をかけた。 「人の流れが変わった。昼間とは全然違う。店も早く閉まるのでは?」 「行きつけがある。そこで……」  言いかけてシラルクは足を止め、肩越しに振り返った。色味の薄い、透き通るような水色の瞳に見つめられ、ジオラスは「何?」と尋ねる。 「待っててって言われて、待ってたなって。寝ている私を置いてどこかへ行こうと思わなかった?」 「思わなかった」 「なぜ?」 「寝ていたから」  腑に落ちない顔をされて、説明が不足だったかとジオラスは言葉を足した。 「君は絵を売ったばかりで、売上を持っていた。広場にいた者なら誰でも知っている。あの場で寝ているのを見かけたら、盗めると考える者がいてもおかしくない。つまり……無防備だった」  シラルクはそっと手を持ち上げて、人差し指でジオラスを指し示し、口元をほころばせた。 「あなたと私は他人だ。一夜の酒代にしかならぬ微々たる金とはいえ、奪って逃げても良かったのに」 「それでは『壁画の魔物』の話を聞けない」  すでに笑顔になっていたシラルクは、くしゃっと顔を歪めてますます笑い、ジオラスの腕に手をのせて掴んだ。何か言おうとしたが、言葉にならず、俯く。くっくっく、と喉の奥で笑い続けている。  なぜ笑われているのかわからないまま、ジオラスは待った。  やがて、シラルクは顔を上げて「あー、おもしろい」と呟いた。 「おもしろいついでに、友達になろう。修復士の仕事に興味があるんだ。壁画に何か用が?」 「修復しに来た。それで、壁画を探している」 「あの(いわ)くだらけの壁画を修復するの? 力になりたいところだけど、壁画のある場所を『どこ』と教えてあげることはできない。なにせ壁画の中には魔物が住んでいて、動き回る」  ジオラスがかすかに首を傾げて、先を促す仕草をすると、シラルクは目を光らせて笑った。 「この都市の石壁の中を、走り続けているんだ。壁のあるところなら、魔物はどこにでも現れる。狙い定めた相手に、がぶっと噛みつく……!」  いまだ触れていたジオラスの腕を、「がぶっ」にあわせて強く握りしめて、シラルクは不敵な表情となる。五指に引き絞られる微かな痛みを感じつつ、ジオラスは考え込んだ。 (動く……。そういう魔法があるとして、描かれた当時は何か役割を担っていた? しかし、動くとしても、絵そのものはどこかにあるはず。魔物に会ったら、魔物に聞くのが早いか。意思疎通が難しいようであれば、絵に帰るところを追いかける)  方針を決め、ジオラスは反応を待っている様子のシラルクの顔をのぞきこんだ。 「君は絵の魔物に会ったことが?」 「あるよ」  天真爛漫な様子で答え、「黒の守護者で戦った。あの魔法が魔物に対抗することを確認する必要があったから」と続けた。 「どんな見た目だったか。絵として都市のどこかで見た覚えがあったか。心当たりがあるならすでに教えてくれているか。ということは、やはり君は何も知らないんだな」 「なんでそういう結論になる?」 「友達になったから。嘘は言わないだろうし、力になると言うなら、知っていることは教えてくれるはずだと」  シラルクは数段階段をのぼってきて、ジオラスの肩に腕を回し、声を低めて言った。 「お兄ちゃん、純粋にも程があるよ。どこから旅をしてきたの? どのくらい騙された?」 「遠くから来た。騙された覚えはない」 「気付いてないだけだ! 心配なお兄ちゃんだな。世間知らずって言うんだ、そういうのは。いいよ、私についてきなさい。行きつけの安くて美味しい店から、手頃な宿まで全部面倒みてあげるよ」 「お兄ちゃんとは……」  気安い口調に戸惑ったジオラスの背をばしばしと叩き、腕を離すと、シラルクは「行こう」と言って階段を駆け下りた。  跳ねる銀色の髪を見ながら、ジオラスはその後に従ったのだった。
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