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星空の下、私の息は上がっていた。
仕事上それなりに運動しているとはいえ、舗装されていない山道を歩くのは辛いものだ。
初めてこの道を歩いたのは大学生の頃だった。
あの時はショルダーバッグひとつで軽い身なりだったが、今よりも息が上がっていたと思う。ヒールかスニーカーかの違いがあるとはいえ、あの時よりも重い荷物を持っていると考えれば、嫌でも成長を実感してしまう。
以前この道を通ったときは、一人ではなかった。目の前にはずんずん歩く彼の背中があったのだ。私は速度の落ちない彼を必死で追いかけた。足は痛むし、真夏の山中では虫よけスプレーも用をなさなかった。
何度も帰りたいという言葉が脳裏に浮かんでは消えた。
しかし、付き合いたてだった私はいわゆる恋の病というやつに侵されていたらしく、この程度ではへこたれない。足がどれほど虫に刺されても、小指がじんじん痛んでも、カルガモの刷り込みのように彼の後を追った。
「どこまで連れてく気?」
「もう少し、後悔はさせないから。……大丈夫?」
振り返る彼の気遣いに、ときめいたことは否定しない。そもそもこの足の痛みを引き起こしている原因は彼だとか、山道を連れ歩くなら先に言ってくれだとか、振り向くくらいじゃ何も解決しないだとか、今となっては言いたいことが山ほどある。しかし、当時の私は彼の手を握り、俯いて頬を赤らめてしまった。我ながら呆れるほどに重症だ。
まあ、でも、仕方ないだろう。付き合いたてで、薄暗い山道で、月明りの下で、手のぬくもりを感じて――多少、汗をかいて虫がぶんぶん飛んでいようと――シチュエーションに呑まれてしまうくらいのことは、二十歳そこそこの私にとっては当然だ。
過去の自分を恥じる気はないし、いい思い出だったと今でも思っている。
汗をぬぐい、山道を登り続ける。目的地まで間もなくだ。背負った荷物がカチャカチャと音を立て小気味良いリズムを奏でる。そう、今日の私は気分がいいのだ。過去にこの道を通った時より、ずっと。
目の前に広がる景色は記憶の通りだった。
山の斜面からせり出したテラスとでも言うべきだろうか。木々が星空を縁取り、月明かりがスポットライトのようにこちらを照らしていた。正面には真っ黒な海が広がっている。目線を下げれば海水浴場があるはずだが、背の高い樹木がボディーガードのようにずらっと並び、視線を遮っていた。
「最高の舞台だろ」
したり顔で呟いた彼の言葉が思い出される。
「演説でもするの?」
ざわめく葉と背の高い木に囲まれて光を浴びる私たちは、演台に立つ選挙の候補者のようにも思えた。ふと気になって、汗ばんだ首筋にハンカチを当てて、下がった靴下を戻す。
「残念ながら今日は演者ではなくて、観客の方」
彼が言い終わるや否や、海側から破裂音が響いて、横顔が紅く照らされる。
その日は花火大会だった。この地域でも特に有名なイベントで、県外からレジャーがてら見に来る人も多い。海岸沿いは見物客でごった返していて、とても落ち着いて雰囲気づくりができるような状況ではない。
「ここ、穴場なんだ」
彼は倒れた樹木に腰を下ろして、木々の合間から見える花火に笑みを漏らした。私も隣に腰かけ、空を見上げる。
「カメラ持ってくればよかった」
「撮るの好きだもんな」
彼が自信満々に穴場というだけあって、なるほどいい景色だった。花火に照らされ、真っ黒だった海は多彩に色づいている。人の目や声も気にならない、まさに特等席だ。
「昔、親父に教えてもらったんだ。ここ、俺の地元でさ。将来大切な人ができたら、見せてやれって言われてたんだ」
「そう……」
内心では飛び上がりたくなるほど嬉しかったのだが、自分の素を出すのが恥ずかしかったあの頃の私は、小さく呟いた。その代わりに、木の上に置かれていた彼の手を、ぎゅっと握りしめた。
あれから何年が経っただろう。今日はあの時と同じ、花火大会の日だ。
私は荷物を下ろし、鞄から一眼レフを取り出す。ストラップを首から下げて液晶の設定を確認し、ファインダーを覗き込む。
あの日と違い、付近には誰もいない。この場所を教えてくれた彼さえも。
「別れて欲しいってこと?」
私は伸びた爪を見ながらそう言った。夕暮れの喫茶店で、マフラーとコートを脱いだ彼は申し訳なさそうにこちらを見ていた。スケジュールの合間を縫って急いで来たのだろう。じわりと汗ばみ、肩で呼吸をしながら、コーヒーも頼まずに続けた。
「嫌になったとか、一緒にいたくないとか、そういうことじゃないんだ。ただ……分かるだろ?」
ここのところ、彼の仕事は好調だった。表舞台で光を浴びる仕事。これからどんどん売り出していこうという彼にとって、女の存在というのはマイナス要素でしかなかった。それこそ、個人的な付き合いをしている人間がいるということが公になってしまえば、大幅に仕事が減ってしまうかもしれない。
「まぁ、分かるけど。……ちゃんと口で言って」
私は目線を上げて、彼に訴えた。
「……君の気持ちはわかる。僕だって辛い。だけど……仕事と、生活のためなんだ。許して欲しい」
両肘に手を付いて頭を下げる彼に、溜め息を吐く。
「私ももう子どもじゃないから、わがままを言うつもりはない。あんたがどれだけ努力して今の生活を手に入れたのかも知ってるし、仮に知らなかったとしても、応援したと思うよ。急だけど、許してあげる。……別れよ」
私と彼、どちらも大きく気持ちがすれ違っていたという訳ではなかったと思う。ただ、二人の行く道が別々だっただけなのだ。申し訳なさそうに顔を上げる彼に私は言う。
「行きなよ。……忙しいんでしょ」
彼は、ああ、と小さく呟き、マフラーとコートを拾い上げて店の外へ走り去った。
その日以来、彼と会うことはなかった。
私は腕時計に目を落とす。月に照らされた時計盤は、花火大会の開始まであと五分を指していた。
……きっと、多分、いや、間違いなく。刻々と近付くその瞬間に、私の胸は高鳴った。茂みの中から、ファインダーを覗く。
「足元、大丈夫?」
「うん、平気」
話し声が聞こえた。タレコミは正しかったようだ。暗がりの中から、その二人は光の中へ歩み出た。
この場所を案内してくれた彼と――最近メディア露出が増えてきた、売り出し中のアイドル。固く結ばれた二人の手が、月明かりをぎらりと照り返す。
心なしかそわそわし始めた二人の名前は、きっと今週末の雑誌を賑わせるだろう。
私だって辛い。だけど、仕事と、生活のためなの。……あんたならもちろん、許してくれるでしょ?
心の中で呟いて、私はシャッターに指をかける。
ドン、と破裂音がして、彼らの顔が紅く染まる。
「最高の舞台だろ」
彼はそう言って、倒れた木に腰かけた。
「えぇ、私にとっては特等席よ。……教えてくれてありがとう」
あの日言えなかった言葉と、無機質なシャッター音は、火薬の破裂音にかき消された。
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