9 侍従長日記と夜に咲く花 :第1話 了

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9 侍従長日記と夜に咲く花 :第1話 了

【 ……かくかくしかじかで長い一日だった。月影御所の侍従長に就任して今日でちょうど三ヶ月になる。カラス天狗さん五人衆のサポートがあってこそ、何とか致命的な事故はなくやってこられたのだと思う。カラス天狗さんたちにも今度なにか感謝の品を送っておかなければ。次の休日にでもカラス天狗さんの好物をネットか図書館で調べておくこと。  それから、卯々木前侍従長のお見舞いに持参する品も数日以内に手配すること。  輝弥さまは内心に御憂鬱を抱えられているように拝察。AR会食の提案によってその一つは解決できたかと思うが、輝弥さまはまだ何か、私にお訴えにならない事柄がおありになる様子だ。早急にこれを突き止め、輝弥さまに心安んじていただかなければ。感情の制御に長けていてわがままを一切口にされない輝弥さまの御要望を知ることはとても難しいが、ここが一流コンシェルジェ志望だった私の踏ん張りどころである。頑張りましょう。 】  侍従長室のデスクで革表紙の分厚いノートに日記をしたため終わった私は、パンツスーツの制服から私服に着替えて帰り支度をした。月影神域には神殿と御所のほかにいくつかの御殿と厩舎(今は使われていない)が点在している。私はいちばん小さな月露(つきつゆ)御殿という建物を住居として使わせてもらっていた。  白い半袖のワンピースに、ピンクのスニーカー。オレンジ色のマイクロポシェット。目と鼻の先の月露御殿まで帰るのにわざわざ私服に着替えるのはメリハリというかケジメのためだ。毎朝の出勤時も、侍従長室で制服に着替えることでパリっと気分が切り替わる。  退勤時は、ミディアムボブのサイドヘアを後ろで留めているバレッタから解放し、ヘアアイロンの効果が切れ気味の天パの毛先を肩で払って揺らすと、お仕事終了、というホッとした気分になる。  事務区画の戸締りをして月影御所を出れば、夏目前の七月でも涼しい山の上の空気が肺を満たす。月影神域には、神域の住人に許可された人間以外は入ってこられない。あやかしも同じだ。結界に弾かれず敷地に侵入できるのは虫と動物だけである。  しらじらと照らす満月の下を、私はゆっくりと歩いて帰る。  神域の全てが平らに拓かれているわけではなく、伐採されず残されている森もある。建物と建物のあいだは煉瓦敷きの小径で舗装されており、分岐を間違えなければ迷うことはなかった。  月露御殿の手前には分岐が一つあり、左に進むとすぐ御殿に着く。右を選んだ先は、ちょっとした庭園になっている。私はもう少し月の下の散歩をしたくなり、庭園に続く道へ入ってみた。  小さな森蔭を通り抜けると、ぱっと視界がひらけて、手入れの行き届いた庭園が現れる。  割れたガラス瓶や壊れたタイルを埋め込んで造られた花壇に、季節の花々が咲き乱れていた。  庭園には先客がいた。  人の姿をした青年だった。庭園の奥の行き止まりに立って花壇の一つを見下ろす横顔は、見知らぬ顔である。月影御所には大膳房や清掃部などであやかしや半人半妖の者を雇用しており、現在出入りのある者の顔なら私は把握している。しかし、あやかしの中には春や冬など特定の季節しか現世に現れない者もあり、月影御所の雇用形態はかなり自由がきくフレキシブルなものになっていると聞いている。昨今流行りのいわゆる働き方改革が、あやかし界では従来から実現されているのである。  だから、月影御所に来てまだ三カ月の私には、青年が内部の者か外部の者か判別することはできなかった。 「こんばんは」  私は無難に声をかけた。  シンプルな白いシャツに迷彩柄のカーゴパンツというラフな格好をした青年は、両手をシャツの下のポケットに突っ込んだまま、突然かけられた声に驚いた様子もなく振り返った。 「あー、こんばんは。おはようございます」  ぺこり、と首を倒して返された挨拶に私は戸惑った。現在時刻は午前零時を少し回った真夜中だ。――〈子泣き亀〉回収の寄り道で夕餉の時間がずれ、AR会食がAR餅田築子ワンマンライブに変質したため、いつもよりだいぶ遅い退勤時間となったのだった。  とはいえ何らかの業界的な挨拶かもしれず、ここは律儀に言葉を合わせた。 「おは……」 「うわー、とってもいいタイミングだ、餅田築子さん」 「はぁ、え?」  フルネームを呼ばれたことに虚を衝かれている間に、近付いてきた青年が私の背中を押して奥の花壇の前に連れていった。 「一年に一回、一晩しか咲かない花なんだ」  夜に降臨した白い花――。  しんなりと茂る緑の茎葉の上に、幾重にも純白な花弁を重ねて、夜の女王のようにその花は咲いていた。 「これ、月下美人ではありませんか?」 「ピンポンです」 「初めて本物を見ました」  私は思わず興奮して振り返る。  青年の姿がなく、あれっ、と目を落とすと、彼は私の隣でしゃがんで花株の足元から夜の女王のかんばせを見上げていた。 「僕も久しぶりに見ました。ふつうの月下美人は年に何度か咲くこともあるというけど、この株は毎年咲いてくれるわけじゃないので」  柔らかく垂れる葉っぱの一枚に手を伸ばして、貴人に挨拶するように指先を添え、「とても誇り高くて我儘なひとが残していったものだから、かなあ」と、青年は呟いた。  しなやかに震えて葉っぱは、青年の手から離れた。  ちょっと苦笑いして青年は立ち上がる。 「あの、すみません……神域に所属の方ですか?」  私は念のため青年に確かめた。 「えっと、はい。僕は庭師をやらせてもらってます。たまに」 「お名前を伺ってもいいですか?」 「名前?!」  身体を仰け反らせて驚かれ、私もびっくりする。そして瞬時に気が付いた。あやかしにとって名前は特別な意味を持つ。特に真名は。力ある者に本質を知られると、力の弱点を衝いて打ち負かされかねないからだ。現代の人間界のような法の秩序がないあやかし界は弱肉強食の歴史の名残りがまだ根強いのだ。  だから迂闊に名前を訊けば当然に相手は警戒するし、儀礼上、とても失礼にあたることなのだった。 「すみません! 真名を奪ろうとか、そういうんじゃないんです。ただ単に、お名前を確認したくて」 「あ〜、そうじゃなくて。違うんだ。名前訊かれるのも久しぶりだったので。何だかびっくりしてしまった」  短かくした黒髪に手を突っ込んで、青年は記憶を掘り返すように目を泳がせた。……ちょっとわざとらしく。 「僕の名前は月夜(つくよ)です」  英語の教科書の最初の章みたいな口調でそう言った。「つきのよると書いて」 「月夜さん」 「ちなみに真名です」  あやかし界のあやかしは伝統的に、用心深く真名を隠して通称を用いる。例外は、一般のあやかしとは比較にならない力――神性を持つ神様たちだ。輝弥さま、破邪姫さま、希天さま、鹿芽さま、すべて彼らの真名である。  もう一つの例外は、半人半妖だ。人とあやかしの間に、人に近い姿で生まれた者は、初めから人間界に生まれ育つため、人間の常識を当然とする。  月夜さんは、おそらく半人半妖だろう、と私は納得した。 「君は新しい侍従長だよね。噂はかねがね」  大膳房や清掃部の人たちから話を聞いているのだろう。 「ど、どんなご評価をいただいているんでしょう私は古株の方々に……」  つい不安から私は口走ってしまった。 「え、ぜんぜん悪い噂は聞かないけど」  ひょいっと身体を傾がせて、月夜さんは私の顔色を覗き込んだ。  満月とはいえ月明かりの下でどれだけの心情が読めるかどうか定かでないが。 「そんなに怯えるということは、自信がないのかな」 「いえ、自信をなくすほど、私に任されていることは多くない……と思うんです」  最初に覚えることさえ覚えてしまえば、侍従長の仕事は過負荷なものではない。細かなことは侍従のカラス天狗さん五人衆が進めてくれるし、卯々木前侍従長の時代からそのルーティンが出来上がっていた。 「だからこそ、もっと、もっと完璧にできるんじゃないかって」  私は、月下にそれ自身が発光しているかのような純白の花を眺めて、呟いた。 「そう思うんです。前の職場にいたときは、お客様のご要望に答えていればよかった。それだけで忙しく一日の業務が終わっていきました。でも、そもそも私はただの人間で、輝弥さまから頼っていただけるような者ではないので」  華奢な少年の体に孤高の神性を宿した輝弥さまにとっての幸福を探ることは、卑小な人間には至難のわざだ。  私は完璧な満月を見上げながらその場にしゃがみ込んだ。さっきの月夜さんみたいに。  そうして月下美人と満月をワンフレームに入れて見上げると、ひときわ非現実的な光景に魅入られる。  月下美人という花を私が知ったのは、前の職場で最初の壁にぶつかったときだった。ステイタスのあるホテルのスイート専用コンシェルジュだから滅多にないことだが、ごく稀に、厄介な事案は発生する。特に、担当が私のような新人の女子である場合は。誠心誠意応じるべきものと、毅然と断るべき対応の違いが分からず、結果的にトラブルを起こした私に、上司のチーフ・コンシェルジュは言った。 『コンシェルジュにも、月下美人を咲かすことはできない』  その言葉は上司の先輩の先輩の先輩から受け継がれてきたコンシェルジュの心得だという。月下美人はお客様からの無理な要望の例えだ。 『コンシェルジュの仕事はお客様の要望に全て答えることではない。お客様にとって快適な滞在をお任せいただくことが我々の仕事の肝。いわば我々は〈オカン〉なのだ』  自立した大人には責任がつきまとう。子供時代の、あの夏休みは二度と来ない、生活のすべてを面倒見てくれた親の元から羽ばたいたら、二度と。 『我々が提供するのは万能や便利ではなく、安心なのだよ』  安心。  そう、私が月影御所の神様たちに提供したいのも、それなのだろう。  安心とは、不安や悩みや気がかりのない状態。  けれども、日夜あやかし界のトラブルや動向に気を配り、統治者としての役割を果たされている輝弥さまたちに、気がかりのない状態などありえないのかも。  ――コンシェルジュにも、月下美人を咲かすことはできない 「私は無謀にも月下美人を咲かせようとしているだけなのかもしれないですね」  月夜さんは私の隣に座り直して、ため息混じりの私の言葉を聞いてくれた。 「咲かせ方もわからないくせに、私」 「でも、月だって、毎日が満月じゃないよ」  片手で頬杖をついて、月夜さんは片手で満月に向かって手を振った。  そして。 「数年に一度しか咲かない花だってあるんだ。それでもほら、こうやって、一度にこんなにも見る者を幸せにする」  私は染み入る言葉に頷いた。 「確かに」 「ね」  屈託のない月夜さんの相槌に、私の心はとても穏やかに凪いだ。  私と月夜さんは、それから月影御所にまつわる他愛ない世間話をいくつか交わした。卯々木前侍従長のお見舞いにどんなものを持っていったらいいか考えていると打ち明けた私に月夜さんは、卯々木前侍従長の好物が網代の和菓子屋さんのそばまんじゅうだと教えてくれた。 「あっ、いけない私、明日も早いので!」  深夜の月の傾きに、はっと現実に返って私は膝を伸ばした。 「うん。がんばれ餅田築子さん!」  ワンピースの裾をひるがえし、私は見送る月夜さんにお礼を言った。 「ありがとう月夜さん。おやすみなさい」
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