魔女は熱帯夜とともに

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 ──私の不幸は才能がなかったこと。  ──お姉ちゃんの不幸は才能があったこと。  ──私たちの不幸は、魔女になる家系に生まれてしまったこと。  梅雨明けをした空は抜けるように青い。燦燦と降り注ぐ太陽光が夏を強く主張する。  今日は気温三十度越えの真夏日らしい。窓の外に目を向ければ、部活に行くらしい女子高生たちが白い生足を晒して炎天下を駆けて行った。  私は椅子から立ち上がって、ぐぅっと背中や肩を伸ばす。ついでにしばらく外に出ていない自分には今日が眩しすぎるから、レースのカーテンを閉めた。  去年までは私もさっきの彼女たちみたいに夏を謳歌していた。夏期講習に行って、友達とプールや海に行って、短期バイトで汗を流していた。でも、今年ばかりはそんな時間はない。  机の上には去年の冬から急増した問題集の山。『頻出英文法・語法3000』、『M大学(文系)』、『共通テストのための問題解決』、……。  私はハーフパンツから出た自分の脚を見た。真っ白い肌、夏らしさなんて微塵もない。  部屋の外から、軽やかに階段を上がる音がした。その足音はまっすぐに私の部屋に向かってくる。足音の主はノックの後、間も置かずにドアを開けた。 「調子どうー?」 「お姉ちゃん、返事する前にドア開けないでよ」 「ごめんごめん」  お姉ちゃんは、作業着のオーバーオールで部屋にやってきた。もう一仕事終えたらしく、額や首に汗が流れる。  草っぽい独特の匂いが一緒に部屋に入ってきた。きっと家の裏にある大きな畑で、商品の材料となる薬草を収穫してきたのだろう。  お姉ちゃんは”魔女”だ。比喩とかではなく、正真正銘”魔女”という仕事をしている。もっと言えば、うちの家業は”魔女”でお母さんもお祖母ちゃんも伯母さんも”魔女”として、薬を売ったり魔法をかけたりしてお金を稼いでいる。  お姉ちゃんは部屋に入るなり、エアコンのリモコンを操作して風向きを固定した。 「生き返る~」  エアコンの冷たすぎる風を直に受けながら、お姉ちゃんはTシャツの首元を広げる。Tシャツから覗く首元もまくられた袖から伸びる腕も、陽の光を受けて真っ黒だ。お団子状にまとめられた栗色の髪とあいあまって、どこか外国の人のように見える。  私は伸ばしっぱなしのショートカットを耳にかけながら、部屋に来た理由を問いかけた。 「まあ、外よりはね。それよりどうしたの?」 「あっ、そうだ。東金のおばさんのところに薬草取りに行くけど、(まい)も行かない?」  東金のおばさんはここから車で三時間かかるところに住んでいる伯母だ。お母さんやお姉ちゃんと同じ”魔女”を生業としており、うちよりも大きな畑で珍しい薬草を育てている。  往復したら六時間。それだけで一日が終わってしまうし、おしゃべり好きの伯母さんに会ったら、薬草をもらってはいさよならってことには絶対ならない。  黙りこくった私に何を思ったのか、お姉ちゃんは言葉を重ねる。 「あっ! 心配しなくて大丈夫。箒じゃなくてちゃんと車で行くから!」  ……そうじゃないんだけどな、と言いたかったけれど喉の奥に押し込める。代わりにお姉ちゃんが諦めてくれそうな言葉を選んだ。 「今日中にこの問題集終わらせちゃいたいから、私はいいかな」  お姉ちゃんは目を伏せて、 「そっか。じゃあまた今度だね」  と言って部屋を出て行った。  エアコンの風がお姉ちゃんのいた空間を抜けて私のところにたどり着く。露わになった脚に直撃する冷たさが苛立たしくて、私はエアコンの停止ボタンを押した。  問題集の薄い紙を一枚めくり、私は問題の続きを解き始める。  英語の文章題を読みながらも頭に浮かぶのは、自分の進路を早々に決めた才能あふれるお姉ちゃんことだ。私が物心ついた頃、お姉ちゃんは既に”魔女”の才能に目覚めていた。箒で空を飛べたし動物と話すことができたし、難しい魔法も難なく唱えることができた。  親戚中が期待した。みんなに褒められるお姉ちゃんのことが私は幼いながらに誇らしかった。そして、いつか自分も彼女のように”魔女”になれると信じていた。  結果として、私には才能がなかった。いつまで経っても動物の言葉は分からず、箒はただの掃除道具で魔法はただの言葉遊びのままだった。小学校最後の夏、私は”魔女”になることを諦めた。  それからはずっと学校の勉強にのめりこんでいる。家業を継げない私は、世の中の人々と同じように受験や就活に取り組む必要があるから。高卒で”魔女”になったお姉ちゃんとは完全に道が分かれてしまった。  車のエンジン音がして、白い軽トラックが軽快に家を出発していった。空っぽの荷台を見送った後、私は今度こそ文章題を解くことに集中し始めた。  お姉ちゃんは案の定、夜遅くに帰ってきた。軽トラの荷台には溢れんばかりに薬草やら花が積まれていた。夕飯を食べていた私は問答無用で積み下ろし作業を手伝わされ、終わるころにはいろんな草の匂いが染みついていた。 「手伝ってくれてありがとうね」 「別に。お風呂入る前だったし」  お姉ちゃんのお礼に、髪や服に着いた花や草の欠片を払いながら答える。  家に入ろうとしたところで、郵便受けを開いたお姉ちゃんが言った。 「今年の花火はどこから見ようか?」  お姉ちゃんの手には、毎年開催される花火大会のチラシがあった。今年の日程は五日後、七月最後の日曜日だ。  花火大会は毎年いろんなところに連れて行ってもらっていた。お祭りの行われている神社だったり人のいない山の展望台だったり、打ち上げ場所に近い浜辺だったり。お姉ちゃんが車の免許を取ってからは割と遠くまで行っていた。  私は手の甲で垂れる汗をぬぐった。風がないせいで停滞した空気は生温く、湿度を含んでべたべたする。夜空を見上げれば、厚い雲が月を隠す瞬間が見えた。  どうする? と返事を促すお姉ちゃんに向き直って口を開く。 「夏期講習の課題、終わってないんだよね。だから今年は行かなくていいかな」  ごめんね、とおざなりに謝罪を付け加えて私は爪先を玄関に向ける。すると、お姉ちゃんが「舞!」と私の手首をつかんだ。 「……なに?」 「受験受験って、そんなに根詰めたらこの先どんどんきつくなるよ。ね? 息抜き、一日くらいしても舞なら大丈夫でしょ?」  小さく首を傾ける彼女の目は強く同意を求めていた。何を必死になってるんだろうこの人は、と冷めた頭で考える。あなたは大学受験したことないから分からないでしょ、と出かかった言葉はどうにか口の先で留めることができた。  はぁ、と聞こえるように息を吐く。掴まれたままの右手首からお姉ちゃんの指を一本ずつはがしていく。右手首が開放されてから、私はお姉ちゃんの目を見て言った。 「私はお姉ちゃんと違って、必死に勉強して良い大学に入らないと就職できないからさ。気を遣ってくれるのはありがたいけど、正直気にしなくていいよ。私は私でやってるからお姉ちゃんは自分の仕事頑張って」  暗いのにお姉ちゃんの目に浮かんだショックがありありと見えた。言いたいことが伝わったことを確認した私は、何も言わずに玄関の扉を開ける。ちらりと振り返ったけれど、お姉ちゃんが家に入る気配はなかった。  そのままお風呂場に向かう。さっさとこの草の匂いとべたついた汗の感触から解放されたかった。  日曜日。気温三十五度。猛暑日だ。私は今日も今日とて、机に向かっている。  レースのカーテンを寄せて外を見れば、文字通りの快晴。花火大会は問題なく開催されるだろう。今年はうちの店も地元のお祭りに出店するらしい。育てているハーブで作った香り袋、押し花をあしらったうちわや栞を夏になる前からお母さんとお姉ちゃんが熱心に作っていた。  私はそれを離れて見ていた。”魔女”じゃなくてもできる作業たち。でもそれを手伝うのはなんとなく気が引けて、結局声もかけずにお祭り当日になってしまった。  お姉ちゃんとは、花火に誘われた日から話していない。朝から晩まで"魔女"の通常業務にお祭りの準備にと、忙しく働く彼女の足を止めてまで話したいことなんてなかった。受験勉強に勤しむ末娘以外はみんな朝から出払っているらしい。静かなリビングで用意してあった朝ごはんを食べながら、テレビ番組を回してすべての天気予報に雨マークがないことを確かめた。  折角の花火でお祭りだ。どうか、みんなの楽しい気持ちに水を差さないでほしい。神様が私みたいなひねくれものじゃないことを祈りながら、ワイドショーに変わったテレビを消した。  お姉ちゃんの傷ついた瞳が頭に浮かぶ。拒絶するつもりはあった。だけど、傷ついてほしかったわけじゃない。自分の進路への不安を一番気持ちをぶつけやすい相手に押し付けただけだ。なんて子供じみた当てつけだろう。  思い出すたびに自責の念は大きくなる。  暗くなっても家には私一人だった。たまにお母さんやお父さんが私の様子を見に来たけど二言三言話しただけで、すぐにお祭りの会場へ帰って行った。  問題集がキリのいいところまで来たので、ふっと時計を見る。十九時五十五分。花火の打ち上げまであと五分だ。  やっぱり音だけでも聞きたくなってベランダに出る。快適な部屋を出た瞬間に、まとわりつく湿気が夏を感じさせる。今年は昼よりも夜に夏を感じるな、と独りごちる。  立ち並ぶマンションの隙間から空を探して辺りを見回せば、遠くに明らかにおかしなものを見つけた。  空を飛ぶ物体。申し訳ばかりの電気を吊り下げているそれは、飛行機やヘリコプターではない。もっと小さな、人間一人分くらいの大きさ──。 「お姉ちゃん⁉︎」  思わず叫んだ。お姉ちゃんと思わしき飛行物体はこちらに向かって、一直線に向かってくる。 「舞!」  十メートルは優にある距離から名前を呼ばれ手を振られる。慌てて私も振り返す。  箒にまたがったお姉ちゃんはスピードを徐々に緩めて、最終的にベランダに着地した。 「お姉ちゃん、出店はどうしたのよ?」 「舞! やっぱり花火見に行こう!」  勢いよく肩を掴まれ伝えられた言葉に、私は声を詰まらせる。 「……今からなんて無理だよ。ここからじゃ半分も花火見えないし」 「だから! 箒に乗っていこうよ!」  目の前に箒をずいっと押し付けられる。懐中電灯を提げたこの箒に二人で乗って行こうというのか。 「箒なんて小学生までしか乗ってないよ」  なおも口ごもる私に煮えを切らしたお姉ちゃんは、箒を持つ方とは反対の手で私の手のひらを掴み声高らかに言った。 「大丈夫! お姉ちゃんがいるから、舞は安心してつかまってて」  手を引かれ、ベランダの手すりに上る。不思議に浮遊する箒にお姉ちゃんがまたがり、私を誘う。  足を離せば、もう私にはどうすることもできない。万が一にもここで落ちたら、運がよくても骨折で普通は即死。受験なんて言ってる場合じゃなくなる。  冷汗が首を伝った。私はお姉ちゃんの目を見つめる。  お姉ちゃんの目は自信にあふれていた。瞳が「信じて」と語っていた。  繋いだ手をぎゅっと握られる。  私は、手すりから足を離して箒にまたがった。 「よしっ! 全速力で行くよー!」 「安全運転でお願いします!」  びゅうっと勢いよく加速した箒は、熱を持った夜の空気を切り裂いて空へと向かう。  六年ぶりに乗った箒は想像よりも揺れなくて、なのに車より速くて、頬を過ぎる風の強さに驚いた。  私は怖くてずっとお姉ちゃんの背中にしがみついていた。ようやくスピードが落ちてきた、と思った瞬間、爆音が鼓膜に響いた。 「舞! めっちゃ奇麗!」  お姉ちゃんが見る先──真っ暗な夜空に視界を覆わんばかりの大輪の花が咲いていた。  私たちは打ち上げ場所の近く、人のごった返す観覧席の上空にいた。  ドンッ、ドンッ。大きな破裂音の直後に、色とりどりの火花が夜空に舞う。 「奇麗だね」  足が宙に浮く不安を今だけは感じなかった。それよりも目の前の──私たちだけしか見ることのできない美しい光景を目に焼き付けることに必死だった。 「あのさ、舞」  お姉ちゃんに静かな声で呼ばれる。 「うん?」 「私はさ、”魔女”になる生き方しか知らないしそれを自分で選んだから。大学行って就職してって生き方をする舞の本当の理解者にはなってあげられないかもしれない。だけどさ」 「……うん」 「私は一生、あなたの味方だから」  うん、と返事をしたつもりだったけど声にならなかった。  花火が打ち上がり、高い空の上で夏の夜を彩る。  目の前の揺るがない背中の温度といつもの薬草の匂いに、今日を思い出す未来を思い描いた。
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