足音とため息

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“コツ、コツ、コツ、コツッ…”  確かに足音が聞こえた気がした。 「誰だ⁈」  男はベッドから飛び起きた。そして、薄暗い寝室をグルリと見渡してみたが、やはり今夜も男以外に誰も居るはずがない。男が時計に目をやると、針は今宵も午前四時を指し示している。 「ハァ…、今夜もか…」  男はうんざりした表情で深くため息をつくと、再び布団を体を(うず)めた。そして、今宵(こよい)も不思議と再び深い眠りにつくのであった。 “ピッピッピッピッピッピッ…” 「ふあぁ…」  午前九時になると、目覚ましのアラームで男は目覚めた。そして、ベッドの上で、鈍い欠伸(あくび)と伸びをするが、相変わらず今日も寝起きは良くなかった。身体(からだ)は重く、気分も良くないのだ。  男はそれでも、だるい身体で無理矢理に起こして、洗面所で念入りに顔を洗う。冷たい水は男の目を覚まし、少しばかり男の気分を向上させたが、本調子には程遠かった。鏡に映る自らの顔を見て『俺も老けたな…。ここ最近は特に…』と(よわい)六十歳を超えた自身の老いを痛感するのであった。  男は重い身体でリビングに向かった。いつもの様に朝昼兼用の食事が用意されていて、良い匂いが漂っている。今日は男の好物のチーズを、たっぷりと使ったオムレツとボロニアソーセージであったが、男はあまり食欲が湧かなかった。 「あなた、おはようございます」 「ああ。おはよう」  男の妻やって来て、男の顔を凝視(ぎょうし)した。 「あなた、やっぱり今日も顔色が良くないわ…。それに、とっても疲れが溜まっているみたいよ…」 「やはり、お前もそう思うかい?」 「ええ。先週よりも酷く思うわ。先月から思うと、まるで別人みたいよ…」 「まぁ、俺も歳をとったと言う事だよ。仕方ない事だ」 「そうかしら…。病院の先生は何て(おっしゃ)ってるんですか? 「ふんっ!どいつもコイツも同じだ。どこにも異常は無い。至って健康の一点張りだ」  男はプンプンしながら、今日も新聞に目を通しながら、そう言った。男は大の病院嫌いで、産まれてこの方、大病もしていないし、入院はおろか、(ろく)に病院にかかったことも無いのだった。  午前十時過ぎ、本日も定刻通りに家の前に男の迎えの車が止まった。男の妻が玄関のドアを開けると、車の(かたわ)らにピシッと起立していた運転手が、素早く後部座席のドアを開けて、挨拶した。 「おはよう御座います。社長。本日は御気分はいかがですか?」 「ああ。おはよう。今日もまあまあだよ」  男はそう言いながら、ダルそうに後部座席に乗り込んだ。 「さようで御座いますか。では、ドアを閉めます」  運転手は顔色一つ変えずに淡々と仕事をこなしてゆく。いつものルートで、いつもと同じスピード、安全運転で会社へと向かった。  午前十一時半、車は巨大なビルの玄関に停車した。車のドアが開くと、男はキリッとした表情で車を降りた。 「おはよう御座います、社長‼︎」 「ああ。おはよう」  玄関には十数名の社員が通路の両脇に並んでいて、深々と男に挨拶をする。男は今日も、その間を堂々と闊歩(かっぽ)して、エレベーターに乗り込む。  エレベーターはグングン登って行き、最上階で止まった。そしてドアが開くと、今日も、いつもの様に二人の秘書が男を出迎えた。 「おはよう御座います。社長」 「おはよう」  男は少し、ふらつきながらも、社長室の自らのデスクに、どっしりと腰を下ろした。 「社長、体調の方は、いかがですか?今日もあまり顔色がすぐれない様ですが…」 「大丈夫だ。問題無い。いつも通りだ。それよりも、先週から言っていた、あのプロジェクトの新案はどうなった?今日までには上げて来ると、言っておった件だ」 「…。はい。来ております」  男は今日も、いつも通りに業務に就いた。(おびただ)しい数の企画書や報告書に、一つ一つ目を通してゆく。他にもトラブルへの対処や、企画のチェックなど、男の仕事は多岐に及んでいた。  午後三時、男はこの日の仕事を終えた。 「ふぅー…」  男は、だるい身体で伸びすふと、少しの間、目を(つむ)って固まってしまった。しばらくして、だるい身体で、半ば無理矢理に立ち上がって、社長室を後にした。  男はエレベーターに乗り込んでからは、壁にもたれて、だるそうにしていたが、一階でドアが開くと、いつもの様に堂々としていた。数名の社員が深々とお辞儀をして男を見送る。男は彼らに軽く手を上げて、迎の車へと乗り込んで、帰路に着くのであった。  男は車の中ではぐったりしていた。疲れで今にも寝落ちしてしまいそうであったが、男は帰りのルートがいつもと違う事に気が付いた。 「おい。どこへ向かっている?」  男が運転手にキツく問いかけた。 「は。病院で御座います…」 「はぁ、今日もか…」  男は『やれやれ』と、うんざりした様子で言った。  病院に着くと、数名いる秘書の一人が待っていて、男を丁重に出迎えた。待つ事が大嫌いな男の為に、病院に掛け合って、すぐに診察を受けれるように段取っていた。男はすぐさま診療室に案内された。  男が診療室に入ると、直ぐに検査が始まって、問診(もんしん)や採血などの、いつもの検査が始まった。そして、一時間ほどで結果は出た。 「どこにも異常は見られませんね。至って健康体。年齢から来る疲労とかの蓄積でですね…」 “ホッ…”  医者はニコニコしながら言った。すると男は医者の話を聞き終わる前に椅子を立って診療室を出た。 「お疲れ様でした」  診察室の外で待っていた秘書が、男に労いの言葉をかけたが、男はその秘書を怒鳴り付けた。 「今日も異常は無かったぞ!それに私は病院が大嫌いだ!もう、いい加減にしろ!」  男はプンプンしながら家路に着いたのだった。  翌日午前十時過ぎ、この日も定刻通りに車は男を迎えに来た。男は相変わらずのだるい身体で、車に乗り込んだ。そして、十数分後、男は声を荒げた。 「おい!何処へ向かっている⁈」 「は。病院で御座います…」  男はムスッとして黙り込んでしまった。  一時間程で車は停車した。これまでと比べると、かなり小さな病院であった。だが、男はそんな事はどうでも良かったのだ。 「おはよう御座います」  丁寧に挨拶するいつもの秘書に向かって、男は開口一番で怒鳴った。 「いい加減にしろ!私は健康だと、一体何人の医者が言っていると、思っている⁈」 「申し訳ございません。この病院で最後になりますので、どうか、ご容赦を…」 「フンッ!」  男は仕方無く秘書に(うなが)されるまま、診療室に入った。そして、男が椅子に座るなり、医師は変な事を言った。 「ん?今日はお一人ですか?」 「ん…?ええ、そうですよ。秘書は部屋の外に居るし、病院(ここ)には運転手に車で、送ってもらいましたが、運転手は車に居ますよ。呼び出しましょうか?」 「いえいえ、結構です。そうですか…。では、早速検査の方を進めていきましょう」  医師は手際良く検査を進めていった。 「んー、特に異常は見られませんね…。血液も、脳も、肺も、肝臓も、腎臓、脈拍、血圧も正常だ…」  男は『それ見た事か!』と内心安心した。 「んー…、解せないですね…。これまで幾つかの病院に掛かられたとの事ですが、心臓の検査はされましたか?」 “ギク!” 「いや、してないと思いますが…」 「ほほう。では、念の為、検査を致しますね。何、ほんの十数分で終わりますから…」  検査は本当に十数分で終わった。すると、医者や看護師が慌てた様子で、説明を始めるのであった。 「実は大変、稀で危険な状態です。今すぐに手術をしないと、危険な状態です!一刻の猶予もありません!」 “あちゃー…” 「ま、待て!どう言うことだ⁈」  あれよあれやと話は進んで行き、男は緊急手術する事になったのであった。  十時間に及ぶ緊急大手術は無事に成功した。男は全身麻酔の影響で、まだ眠っていて、意識は無かった。だが、男は確かに聞いたのだった。 “コツ、コツ、コツ、コツ”  いつものあの足音が男の眠るベッドの脇まで来た。 「ハアァ…」  そして、大きなため息の後、足音は離れていって、とうとう聞こえなくなった。男がこの足音を聞いたのは、これが最後であった。  翌朝、男は目覚めた。十時間に及んだ大手術の後だと言うのに、ここ最近では一番の目覚めの良さだった。まだ身体を上手く動かす事は出来なかったが、あの身体のだるさや、疲れは不思議なほどに無くなっているのだった。 「あ。お目覚めになられましたか」  男の様子を見に看護師さんが来た。そして、男は開口一番に気になっていた事を聞いた。 「昨夜、私が寝ている時に、ここには来られましたか?」 「ええ。もちろん来ましたよ」 「それじゃあ、大きなため息をして、帰って行きましたよね?」 「ため息?まさか!看護師(わたしたち)がそんな失礼な事する訳ないじゃないですか!きっと夢を見られたんですよ」  男は『そう言えば、あのため息は男の声に聞こえたな…』と内心思ったのだった。  男は順調に回復して、数週間で退院した。退院後は手術前の様な身体の不調はすっかり無くなって、以前の様にバリバリ働き始めた。すると、あの足音の事や、最後に聞いた、あのため息の事など、すぐに忘れてしまったのであった。  男の緊急手術が成功したあの日、とある世界の企業の一部署で、社員達がヒソヒソと陰口で盛り上がっていた。 「また失敗したらしいわよ」 「しかも、今度は有数の大企業の社長だって」 「もう少しで成功って所で、今回も勘づかれたんだって」 「そして、また、部長に怒られてるのよ」  部長室からは部長の怒号は漏れ聞こえていた。 「まただ!君とゆう奴は…!普段は優秀で、どんなに難しい仕事もこなすのに、大一番になると、(ことごと)く失敗する…!君の心臓病による仕事は見つかりづらく、高い実績があるとゆうのに…!」  ひとしきりの部長の説教の末、彼は部長室から出て来た。 “コツッ、コツッ、コツッ…、ハアァ…”  彼はコツコツと足音を立てながらため息を吐いた。そして、自分の死神としての不甲斐無さが、つくづく嫌になるのであった。終
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